終章
 
     第一節 真宗朝から見た皇権と君臣関係
 
 地図に喩えれば、本書の第一、二章は一時代の百万分の一の地図、第三章以下は拡大された一万分の一の地図である。時代は真宗時代、この時代における皇帝権力と中央政治の運営という視点から、五人の宰相を取り上げ、少し詳しく分析してみた。つぎに、皇帝の書記官であり、同時に執政集団の予備軍も兼ねる翰林学士という士大夫層のエリートの政治的活動を考察した。さらにその時代に育成した士大夫を代表する人物として范仲淹を取り上げ、君臣関係という考察視野を一層広げて、中国における伝統的知識人の精神像をその積極的な面から提示した。
 本書で取り上げた五人の宰相の在任期間は、真宗という一人の皇帝の即位から死去までの全過程を包含しており、そこに翰林学士の活動と、真宗朝の延長線上にある范仲淹の言動を重ね合わせて考察すれば、真宗時代の皇権の実態が解明できると思う。ところが、「廬山の真相を見極められないのは、自分が廬山の中にいるからだ」と蘇東坡の詩にあるように、史実の沼にはまりこみすぎれば、逆に具体的な事件に牽制され、本質的なことが見えなくなる可能性がある。そこで皇帝権力を中心として、少し整理しておきたい。
 真宗朝の歴史は、初期の適応期・中期の正常期・後期の混乱期に分けられる。この皇帝統治の三段階は、典型的なものである。史上のほかの皇帝の在位期間も、例外があるものの、大体がこのようなプロセスをたどった。
 初期の適応期では、正規の帝王教育を受けていた真宗は、幼主即位ではないものの、帝王学を実習する皇太子段階から即位後の一定の時期に至るまで、一挙一動に小心翼々としており、太子の師傅と顧問の元老に対し恭しく接していた。このように最初から身についた気の弱い性格は、かれの政治上の発言を少なくさせた。この段階に皇帝の名義で出された政策は、ほとんど宰相呂蒙正・呂端・李等をはじめとする執政集団の意志を体現したものである。即位初期の軍隊の高級将校の任命と執政集団の選抜から、政治の安定策の執行まで、すべては宰相たちの決定であって、皇帝の名義を使用するだけであった。この段階の皇権は宰相をはじめとする執政集団の権力の具現であった。
 またこの段階には、新皇帝の恣意的行為を防止するために、李等士大夫は内憂外患および天災などを理由としてたえず帝王教育を強化していた。特に李は太子のときの師傅であったため、真宗に対しては「詭随を喜ばず」、「直を執りて矯むること無し」、「誨えを納め規を尽くし、犯有るも隠無し」と教え、強い態度で「妃を封ずるの詔を焚き、以て人主の私を格」し、「真宗に告ぐるに、新進喜事の人を用う可からざる」を以てした。李の人事任免についての教えは、かれが死去した二十年後まで、真宗の心にしっかりと刻まれていた。真宗が初めての正統君主として即位した当初、李の一連の行動は、極めて大きな役割があった。その役割の一つは、真宗に皇権を正確に認識させたことである。一例を挙げよう。真宗は明徳皇太后の薨去のため、一時的に政務をとらなくなっていた。「李等上表し、聴政を請う」が、真宗は「梓宮殯に在り。四方の事、各々司の存する有り。請う所の聴政は、朕の情の未だ悉さざるところなり」という理由で拒否した。皇帝たる真宗にとって、政を聴くか否かは重要ではなく、皇帝不在は正常に運営されている政務にはほとんど影響がなかった。宰相は「各有司存」の首脳なのであり、宰相が国政を総攬し、権力を強化することは、真宗からすれば至極当然なことであった。真宗にこうして認識させたことが、皇権の私的権力への転化を防ぎ、かつ最大限の政府の公権力への吸収を保障したのである。その役割のもう一つは、初代の正常継承の君主から始まる新しい君臣関係を定着させ、ついに皇権を位置付けさせたことである。宋代における君臣協力下の宰輔専政は、この段階から本格的に始まったのである。
 中期の正常期では、「畏友」と称することができる李の死後、契丹の侵入を契機として、「面折廷争」で知られる寇準が宰相となり、真宗を強引に親征させて、「?淵の盟」を結び、北宋に百年あまりの平和をもたらした。寇準は軍事行動の場合だけではなく、人事任免の場合にも「天子を左右」した。寇準の強い態度が本来弱気の真宗に、政務を一層政府に一任させることになった。戦争状態から平和期に移行するとともに、王旦が宰相として登場してきた。性格が温厚な王旦は李・寇準と比べて別のタイプである。王旦は李の帝師経歴も寇準の前朝執政の経歴もないが、非常に賢く君臣関係を処理している。かれは心理的にかなり堅苦しい真宗を非常に尊重して、すべてのことを真宗に伺いかつ報告し、諫めつつひそかに穴を埋めて真宗の面子を保全する。これは李・寇準とかなり対照的なやり方であった。宰相王旦のころから、真宗は次第に重苦しい気分を脱却して帝王として尊厳を改めて示してきた。これによって、君臣間に固い信頼関係を打ち建てた。その信頼関係の上で、王旦は十二年もの長きにわたり宰相を務めた。真宗は王旦に対して「素より其の徳望を重んじ、委任して二は莫し」という記事がある。王旦は政務を処理するとき、「上覽を経ざる者有らば、但だ旨を批して奉行す」という場合もある。こうしたやり方は真宗が目を通すプロセスを略して、直接に聖旨を奉ずるということを書き込んで実施するのであった。ある人は王旦の越権独裁を真宗に告発したが、真宗は「旦、朕の左右に在ること多年たり。朕、之れを察するに毫髪の私無し。東封の後自り、朕、諭し小事を以て一面奉行せしむ。卿等謹んで之れを奉ずべし」と説明した。これによって、王旦の越権独裁は真宗の与えた特権となった。これは宰相を代表とする執政集団の権限に皇権を吸収して合流させることになろう。王旦のような長い経験をもっている大臣に、権力を委譲し、充分に信任を与える。これが真宗自らの認識なのであった。真宗はかつて王旦等の執政大臣に、「朕、古今の事を觀るに、若し君臣道合し、上下心を同じくせば、何ぞ不治を憂えんや」と話している。真宗の王旦に対する信頼度は『長編』の記事からも伺える。「(王旦)国に当たること歳久しく、上、益々倚信し、言う所聴かざる無し。他の宰相大臣の議する所有りと雖も、必ず曰く、王某は以て如何と為す、と。事大小と無く、旦の言に非ざれば決せず」とある。これによれば、真宗がかつて「小事を以て一面奉行」と王旦に話したにもかかわらず、実際には、「事大小と無く、旦の言に非ざれば決せず」というようになったのである。「進賢退不肖」という言葉は、寇準と王旦がそれぞれ言っている。しかし寇準はそれを強引に実行し、王旦は柔軟に行う。例えば、二人とも王欽若に反感を抱いていた。寇準が宰相を務めたとき、勝手に真宗の指名した王欽若の資政殿学士の序列を下げ、真宗を不快にさせた。王旦が宰相を務めたとき、真宗が王欽若を宰相に任命しようとしたが、王旦に断わられた。王旦は南人を宰相に採用しない祖宗法と公議という二つの理由を挙げて、真宗自らの決定を撤回させた。王旦のやりかたは皇帝の支持下の宰輔専政の典型例だと言えよう。
 「セン淵の盟」を除けば、天書降下と泰山封禅などの宗教行事が真宗朝の大事件であった。宰相である王旦が真宗の行為を黙認したのは、後世の非難を浴びた。真宗がその行動を遂行したのは、皇権の発動ではなく、王旦の妥協および朝廷内の一定の勢力が皇権と結合して、皇権を支持した結果であった。セン淵の盟を結んだ後、朝野内外は平和の到来に欣喜雀躍としていた。そして、そのとき宋王朝の経済力は、建国以来の数十年間の蓄積と発展によって、最盛期となっていた。そうした雰囲気と背景の下で、東封西祀という世に類のない大典を行うのは、当時の人々から見れば、ごく自然なことである。王旦などの執政者は、そのような人力と財力を浪費する活動をやりたくはないが、当時の朝野内外の雰囲気には逆らえない上、さらに王欽若・丁謂などの佞臣が真宗のために提供したいろいろな口実にも逆らえなかった。その上真宗は目的を達成するために王旦を招宴し、賄賂を遣い、極めてうまく丸め込んでいった。王旦は真宗の面子を立てざるを得ず、かつ真宗の弱気から抜け出そうとする気持ちに一定の同情を抱いていた。そのようなもろもろの要因が真宗に目的を達成させたのである。広い面から見れば、「セン淵の盟」は宋王朝に百年余りの平和をもたらした一方、盟の誓書で互いを皇帝と呼び合うことは、逆に士大夫の「天無二日」という一元的天下観に莫大な衝撃を与えた。「天命を受け天の代理者として天下を統治する唯一の存在である皇帝=天子という伝統観念が、もはや通用しない現実が出現し、否応なく華夷認識の再考を迫られることになったからである1」。ゆえに、真宗は天書降下と泰山封禅などの宗教行事を通して、天命が「付於恒」という自身の正統的地位を強調しようとするだけではなく、漢・唐に倣い、漢民族特有の方式で宋王朝があいかわらず天下の主であることを強調しようとした。この視点から見れば、真宗の行為は皇権の暴走ではなく、これも政府と皇帝の共同的行動であった。当時の雰囲気の下で、参知政事王欽若が主宰し、前後して三司使・参知政事となった丁謂が国家の財政支援にあたって、天書降下と泰山封禅などの宗教行事が大がかりに行われた。これに対して王旦は消極的に協力していたのである。それらの行動はある程度、皇権が宗教的狂気を持つ王欽若および政治上権力志向を抱く丁謂に左右されたと言える。本書では王欽若と丁謂の例を取り上げ、所謂「奸臣」が皇権を左右し、利用するありさまを示そうとした。それは水のように柔らかく、皇帝を従わせるものであった。ほかの宰相大臣も少なからず皇権を左右する。しかし「奸臣」の皇権を左右する行為が特に世論に非難されるのは、かれらが皇権を士大夫政治の常軌から偏向させたからである。
 後期の混乱期は、王旦の死去と王欽若の宰相登場とともに訪れてきた。王旦の死ぬ前に、皇権行使は王欽若などに操縦された宗教行事と王旦に維持された正常な政務進行に二分化とされていた。しかし王旦の死去によって、朝廷の政治は混迷してきた。先に地方に出ていた寇準は任地の天書降下を利用して、皇権と同盟を結んで宰相王欽若を取って代わり、再び朝廷に入って、宰相となった。ところが、政治的策略を練らない寇準は、執政集団の内部では、先に参知政事、後に枢密使となる丁謂および枢密使曹利用と激しい対立状態になった。その対立は寇準の同盟者である首相向敏中の死去につれて、二分化した執政集団での寇準派の勢力を大いに弱めていった。一方、そのとき、真宗が重病にかかり、政治的野望を持つ劉皇后は皇権の代行者となった。劉皇后は立皇后の時から、寇準と敵対関係にあったため、自然に政治上の立場が丁謂派に傾いた。それは丁謂派が皇権の行使権を獲得したに等しい。皇権へのコントロールを失った寇準派は、クーデターという極端な手段まで使って、必死になって劣勢を挽回しようとしたが、やはり皇権と結んだ丁謂派に負かされた。その派閥闘争を発端として、朝廷は乱闘の状態に入っていった。丁謂対李迪、丁謂対王欽若、丁謂対王曾などの敵対関係が繰り広げられた。その代表的人物の背後には、多くの朋党が集結しており、負ければ、かれらも朝廷から追放される。真宗の後期は繰り返してその乱闘劇が続いた。派閥勢力にとって、その時の皇権はてんびんの分銅のように、味方に引き入れられるか否かで勝ち負けが決まるものであった。最終的にやっと王曾が皇帝の権威を借りて、宋代史上における権臣の第一人者丁謂を打ち倒し、真宗朝の政争を収拾して、朝廷に正常な状態を回復させた。真宗が重病で寝こみ、事実上の皇帝不在という状態は、真宗の崩御後、幼い仁宗の親政に至るまで続いた。しかしこれは皇権の真空を意味せず、乱闘状態にある朝廷の政争でも、正常な政務でも、すべてのことは皇帝の名義で進んでいた。この事実も皇権の象徴性を物語っている。
 政策決定と政令発布のシステムから見れば、皇帝の内降・内批であれ中書の擬旨・進熟状であれ、いずれも書き手である知制誥あるいは翰林学士を通じて始めて政令となる。このプロセスを経て、書き手たちは自分の政治理念および派閥的政治的立場によって、部分的に自己の意志を入れ、政令により示される皇権をある程度変更させた。以上のことは正常な政策決定のプロセスであったが、極めて異議がある政策決定については、政令起草の段階に及ばず、書き手による封還詞頭という行動が行われる可能性がある。書き手の関門を通り過ぎても、朝廷では給事中の封駁、ひいては台諫の論駁などの関門が待ち受けている。このような制度上のメカニズムは皇帝の恣意を防止するだけではなく、同様に権臣の暴走を制約している。これは官僚政治(宋以降の士大夫政治)自体のメカニズムである。
 朱熹は「本朝の忠義の気、却って是れ范文正より作成し起来するなり」と言ったことがある。確かに范仲淹の政治的実践には非難されるところもあるが、士風、とくに進言の風の育成に関して、范仲淹にはその功労があると思われる。このような士風による世論は広範囲で偏りがちな皇権および相権を制約して、最終的にそれを士大夫政治の総利益に合致する軌道に乗せようとするのである。
     
       第二節 皇権の位置づけ
 
 平田茂樹氏は宰相の専権について、「あくまでも、皇帝権力を背景にした専権であったのである」2という結論を出したが、冨田孔明氏はこれについて「この結びは、恐らくは王氏は全く納得しないものであろう」3と推測している。これは私の見解を誤解していると思う。このような誤解を持っている学者が中国でも、日本でもかなりいるようである。実はこの点について、私の見解は平田氏と根本的な相違はないと思う。一九八九年の「論宋代皇権」では「一般的に皇帝と臣下、特に宰相とはつねに対立的状態にあったわけではなく、宰相の権力が強まるのは、往々宰相と皇帝の関係が密なることに関わる」と述べた。宰相をはじめとする執政集団が行う宰輔専政は、皇帝の協力下の専政である。つまり皇権を吸収した上での専政である。また権臣の専権および奸臣の権力を弄するのは大いに皇帝の名義を利用して行ったことである。これは本書の論述上の重点である。
 なお冨田氏は宮崎市定氏の「君主独裁とは君主の恣意が凡ての政治の根源となるの謂ではない」4という定義に依拠し、「皇帝の恣意性の是正と皇権の低下に関する王氏の見解に多少なりとも修正を求めたいのである」と私の説を批判した上で注文されてきた。これは私の皇権理解とかかわる。皇帝という身分がかれに与えた地位と権力は全く公的なものである5。つまり「天子無私」ということである。しかし皇帝は結局一人の人間として、私的な一面を持っている。家天下という政権特徴も、皇帝に皇権を私的な権力と誤解させる一因であった。そこで皇帝は公権力の枠を逸脱して恣意的に皇権を振るう場合が多くなったのであろう。官僚士大夫にとって皇帝への諫めは、やはり制度上の皇権と恣意的な皇権との両方面への対応を含んでいると思う。両方面への制約は、いずれも皇帝権力に常軌を逸脱させないための行動である。そして皇帝の公的なイメージを保つ行動でもある。このような行動は実質的な皇権を低下させ、したがって必然的に皇権の象徴化を促進するに違いないだろう。
 ここで、象徴化について言及すると、寺地遵氏が創唱する「皇帝機関説」にふれなければならない。「皇帝機関説」について、支持者の一人である小林義広氏は「君主が猜疑心を捨てて、臣民の動向と輿論を察知せねばならないとすると、そこに立ち現れる君主像とは、恣意性を排除した公正な態度を持する姿であろう。そして、その至公の君主を頂く国家とは、いわば『皇帝機関説』ともいうべき国家像だといえるのではなかろうか」6と述べている。このような士大夫が期待していた理想の皇帝像は、まさに私のいう皇権の象徴化ではないだろうか。ところが、中国の皇帝は神のイメージを持たず、究極的な象徴化は達成できなかったので、自己の政治的過失、ひいては政府の政治的過失に対して、責任を負わねばならなかった。歴史上において、しばしば見える罪己、禅譲、王朝交代は、このことを物語っているのではないか。
 
       第三節 唐宋変革論についての私見
 
 歴史は一つ一つの時代によって構成されるものである。ところで考察の対象としてなぜ真宗時代を選択したのか。その理由については、序章ですでに述べたが、そこでは尽くせなかった考えをここで改めて述べておきたい。
 近年以来、寺地遵氏は、政治史の視点から唐宋変革論に批判を提出した。
   内藤湖南の提言以来、唐宋間に中国社会の一大変革期、転換点を見出そうとする展  望は日本の中国史理解の独創的なものとしてさまざまに話題とされてきた。しかし宋  政権の運動全史を通して、すなわち歴史的に変革説を証明できたとは言いがたい。…  宋政権の誕生――発展――衰退――滅亡の全過程を通観して、それが例えば唐王朝の  それとどう相違しているのか、秦漢帝国以来の皇帝官僚制という大枠は共有しつつも、  両者間の社会的発展が政治形態と政治運動において、どのような差異として顕現して  いたのか、こうした問いに答えてくれる研究は殆どないのではないか7
 これは確かに難問である。私は唐宋間に中国社会の巨大な変革が起こってきたという事実を認める。以前発表した論文では暗黙のうちに先学の説を受けて、唐宋変革論に従って、宋の時代的特徴を述べたことがある。ところが、私が理解する唐宋変革論は、従来の定説と少し異なる点がある。或いは修正する点がある。魏晋南北朝時代は、門閥士族が政治舞台の主役である。いわゆる「上品に寒門無く、下品に勢族無し」と云われる。そのような門閥制度及びその観念の残滓は唐代まで影響を及ぼしていた。唐末より五代にかけての混乱は社会を激しく揺り動かし、陳腐な門閥観念の残滓を一掃してしまった。例えば、「婚姻、閥閲を問わず」となった。また、政権が走馬燈のように絶えず交替し、固有の政治秩序を乱し、伝統的な政治構造を打破してしまった。その背景の下で、宋王朝は次第に「士大夫と天下を治む」という政治構造になった。このような士大夫政治こそ、魏晋南北朝時代における門閥世族政治および唐の地域集団的貴族政治と相違するところである。もし宋代にこうした政治形態がなく、単に王朝の興亡から見れば、確かに宋も以前の王朝と大幅な区別がないだろう。
 問題はこの変革は何時起こったのかである。それはまさに宋の真宗朝から始まったと思う。後周時代から、中原地域はすでに安定的な社会になっていた。北宋の平和的政権交代および順調な江南接収は新たな社会の動乱を起こさず、再統一された全国は経済の回復と繁栄をもたらしてきた。これは太祖・太宗朝の政治設計と政治実施の基礎であった。すでに序章で述べたように、真宗朝にはいると、宋代の士大夫政治を特色とする新しい官僚政治が初めて本格的に形成された。太祖・太宗朝では、中央から地方にいたるまで、ほとんど後周或いは江南から宋に入った旧臣によって政務は一手に握られていたが、太宗朝からは大規模に科挙試験を行い、常に数百人ひいては一千人を超える進士・諸科および特奏名の合格者を官途につけさせていた。またほかのルートにより、官僚になる人を加えて、十数年を経て、宋王朝自身が養成した士大夫が前代の旧臣に取って代わり、政治の舞台の主役となった。「満朝、朱紫の貴、尽く是れ読書人」と描写するように、士大夫がある独立的な階層或いは勢力として空前の成長を遂げたのである。
 「取士、家世を問わず」(取士不問家世)といわれたように、読書人は艱苦に耐えて勉励し、大体機会均等の競争の下、抜群に頭角を現したものは、支配階層に飛び込んで、統治層の一員になったのである。官途に入った士大夫はもはや跳び超えがたい「竜門」を悲しみ嘆くことがなくなった。逆に官途に入ることに成功したという社会的地位の変化によって、「達すれば兼ねて天下を済う」という志向を燃え立たせ、かれらが身を投じた政権の安否を自任して、もはや傍観的な局外者ではなくなった。したがって士大夫は一層責任感を強めたのである。科挙規模の拡大につれて、士大夫は政権の雇用者によって主人公とされた。この身分の転換は士大夫の精神面を変化させた。要するに「士大夫官僚の再生産装置である科挙が、単なる官僚登用制に止まらず、唐宋変革によって、出現した新しい中国世界の統合システムとして機能したことに着目して、士大夫政治出現の歴史的意義について考えたい8」。
 これに止まらず、社会構造の変化ももたらされた。「修身・斉家・治国・平天下」という儒学が与えた道徳的要求と政治的理想は、士大夫に個人的道徳の修養を重視させると同時に、国家管理の演習のように、初めから家庭の管理をも行わせた。家庭の管理のよいか悪いかという実績は、士大夫の行政的能力とかかわる。そのため、士大夫は国家に政治的責任感を持っているように、家族にも責任感を持っている。実際の既得の利益という角度から見れば、子々孫々とも出世でき、官戸の特権を保つことは、出世した士大夫の家族への義務であった。范仲淹が家族のために設置した義荘はこのことを物語っている。一方、表面的には平等に誰でも参加できる科挙試験は、長期間受験準備をする受験生にとって、支える巨大な費用が必要であった。その支持の提供を受けた士大夫は、出世後、家族に恩を返さなければならない。代々にして循環することは、宋代から始まり、家族ひいては宗族の根を深く下ろしていた。今日残されている中国人の族譜で直接の明確な繋がりはほとんど宋代からである。この事実も宋代士大夫およびその家族の隆盛を物語っている。自己の家族の隆盛を維持するためには、単なる家族内の経営だけでは足りないため、有力者と姻戚関係を結んで、優秀な士人を新鮮な血として家族に導入し、士大夫階層が相互に婚姻を通じて親戚となり、人と人との絆を結びつけるのは、かなり普遍的事実であった9。これによって宋代以降、昔の魏晋南北朝の「士族」と全く異質的な新士族が形成された。農耕民族の伝統をもつ中国人は、家族意識がかなり強い。これは地域的勢力と政治的集団を結成する基礎の一つである。士大夫が一つの階層として有力なのは、巨大な人的ネットワークをもっているためである。これは姻戚・同年・師弟など複雑な絆で結ばれたネットワークであった。また官僚の任用上、恩蔭などの出身者より進士出身者を優遇することも士大夫階層が永遠に優秀なエリートによって率いられる設計であったとはいえよう。
 要するに、筆者は寺地遵氏の「宋王朝権力体の基本的主体的運転者は科挙合格者層であった」10という説に賛成する。だが、筆者がいう士大夫層は科挙合格者層よりもっと広い社会層を占めると思う。さらに宋代から、とくに真宗朝から士大夫政治を特色とする政治体制が定着し、その上で中央政治の運営が宰輔専政の時代に入るようになったと考える。なお、そのような士大夫政治の雰囲気のなか、仁宗朝に入ると、政治的変革は一層精神的変革をもたらしてきた。
       
      第四節、皇権が象徴化に向かった歴史的な要因
 
 中国の伝統的政治事実の考察を通じて、強大な皇権が実質的なものから象徴的なものへと転化するプロセスと原因とを探し求めることが可能になると思われる。
 この問題を思考するに当たり、まず視線を皇位世襲制に向けていった。「君権神授」という言説は皇帝に絶対的な権威をあたえていたものの、開国皇帝の後継者として、皇帝の直截な権力と権威の源泉は血統である。このような視点からは以下のことが考えられる。
 第一に、開国皇帝は多くが戦争及びクーデタなどの非常な手段で政権を奪い取ったのである。政権を奪取する方式によって、必然的に開国皇帝は大権を握り、行政上の首脳になる。決してただ象徴的意義を持ち礼儀的な虚位を擁する皇帝ではない。しかし人間の生理上の能力的限界によって、極めて有能で精力的な皇帝も何事も全て自分で行うことはできない。それが皇権の下での宰相をはじめとする執政集団の権力を発展させる空間を残していたのである。
 第二に、前政権に取って代わって皇位に就いた開国皇帝は、一般的に言えばかなり傑出した能力を持ち、凡人ではなかったが、後継の皇帝は、往々にして自身の能力と関係なく、ほとんど激しい角逐を経ないまま、宗法関係によって皇帝位を受け継いだのである。即位した皇帝は、政治的実践と経験が乏しい。このような皇位継承制が、君主の能力が低いことをもたらすことはまぬがれない。この点だけでみれば、後継の皇帝は必然的に開国皇帝より弱くなるほかない。かれが持っている名義上かれに属する権力は、かれの政治的実力に由来するものではなく、ただ皇位という特殊な地位によってもたらされたものにすぎない。従ってこのような地位は、多くの場合ある象徴的な意義を持っているのみである。
 第三に、皇位世襲制の下で即位した皇帝は、年少の者が多数を占めた。まだ成年になっていないので、年齢的な能力の限界から政務を執り行いにくい。したがって政事は多く前朝の顧命大臣によって決められる。こうして即位した皇帝は前朝の元老をきわめて尊敬するようになった。これによって新皇帝は即位の初めから立ち上がれずに、宰相たちに左右されることになる。たとえば、宋真宗が即位した時、幼すぎるということはなかったが、『宋宰輔編年録』巻三咸平元年十月戊子の条に「輔臣と禁中に対し、呂端等を見る毎に、必ず粛然として拱揖し、名を以て呼ばず。端等再び拝して請う。上曰く、公等は顧命元老なり、朕、安んぞ敢えて上、先帝に比んや、と」と記されている。明代皇帝は実際の宰相である内閣大学士を「先生」と通称して師として尊重している。まして年少の皇帝ならば、さらに顧命大臣の輔佐を離れられないのであろう。輔佐から親政までの間に、実際的な役割を果たせないだけではなく、何事も大臣の言われるままにする弱い性格を身につけてしまう。したがって君弱臣強も必然の勢いであった。
 ところで、以上に述べたのは中国史上における皇帝制度に特有のものであるだけではなく、ほとんど世界史上における王位世襲制下の君主執政にまつわる共通の問題であると思われる。しかしながら、これは中国史上において皇帝権力が象徴化に向かう一因とは言えないだろうか。
 皇位世襲制は皇帝権力象徴化の要因であるが、同時に政治制度の整備こそがより決定的な要因となる。これは二元的問題である。一方では、全ての中国史の流れから見て、政治制度が次第に整えられる過程がある。他方ではそれぞれの王朝においての、政治制度が次第に整備される過程がある。
 まず制度上について中国の歴史全体の流れから見てみよう。
 秦の始皇帝時代において、最高至上の皇権が形成された。しかしその時代には、完全な政権体制はまだできていなかった。その時代の強大な皇権の下では、君主の行政的長官としての職能が特に目立っているが、宰相などの大臣が往々にして日常の事務的なことの処理及び具体的な政策を執行する地位にあった。漢初も同様にこの状況がほとんど変わらなかった。しかしながら、歴史の発展とともに、政権体制が日一日と完備され、政務の分業もますます綿密で具体的になっていき、宰相をはじめとする執政集団(唐に政事堂、宋に中書門下、明に内閣、清に軍機処)の政策決定の職能も次第に強化されてきた。そのため、皇帝が直接政務の処理に参与する機会はますます少なくなる。皇帝はその象徴的意義を除き、政府の運営では、「余計な人間」となった。その主要な役割は「印鑑」ということにすぎない。この意味から言えば、成熟した政権体制自体は、皇権をある程度排斥していく体制なのである。宋末のある監察御史は、「政事は中書に由れば則ち治まる。中書に由らざれば則ち乱る。天下の事は當に天下と之れを共にすべく、人主の得て私すべき所に非ず」11と説いた。これは整備された政権体制の下、皇権が実際の政治生活の中にほとんど立脚点をもたないということを表している。明代に至っては、皇帝は数年、ひいては数十年間宮殿から出ることはなかった。政務はすべて実際の宰相である内閣大学士によって執り行われたのであった。清末の郭嵩涛は「明は宰相・太監と与に天下を共にする」12といった。この一言は的を得ているといえる。
 次はそれぞれの王朝から見てみよう。
 開国皇帝及び準開国皇帝は、政府の行政事務にかなり多く干与するが、しかしその政権の運営が正常な軌道に乗り、政治体制と様々な制度が次第に整備されると、殆どすべての政務が既定の法規によって慣性的に推進されてくる。その王朝の草分けの時期がもはや終わった頃に皇位を継承した皇帝は、政府の行政事務への影響力を次第に維持できなくなっていき、政務に無関心になってしまう。逆に、宰相をはじめとする執政集団によって政務が主宰され、これにより必然的に皇帝は開国皇帝と異なり、行政長官の役から退かされ、何事においても必ず自分でやる必要がない名義上の君主となる。こうして開国皇帝から後継の皇帝に至るまで、皇権は除々に実質的な変化をとげていった。
 要するに、伝統中国の皇帝権力を考察してみると、一つの興味深い事実が看取できる。君主が強大な皇権を獲得するために、高度の中央集権的政治制度を立てた。しかしながら、中央集権的制度の創立者が予想もつかなかったことに、歴史の発展が意外にもこの中央集権的政治制度を皇権の天敵に変えるようになったのである。皇帝が彼の策士たちと共同で作った中央集権的国家という巨大な機器が動き出すと、挙国一致してこの機器に従って動いていく。皇帝でも大臣でもだれであろうと完全に機器の操縦を担当できず、この巨大な機器の一部として相互に協力するギヤとベアリングになるにすぎない。こうして皇帝権力も国家権力の一部となるようになった。
 制度の完備への促進には制度外の保障が必要となる。この保障は、皇権以外の政治力からなるものであった。歴代そのような政治力はあるが、宋代に入ると、空前に興起してきた士大夫階層が上から下へ貫いて政治を支配するようになった。その支配から生まれた責任感は空前の盛んな士論を育成した。その士大夫政治に依存している士論あるいは公議は、皇権とほかの権力が制度の枠外に逸脱することを防止する最も強大な政治力であった。それは皇権およびすべての権力を士大夫政治の既定の軌道に従わせなければならない。皇帝を含むすべての権力者はその力と対抗できない。宋代では、「祖宗法」と「公議」が、皇権そのほかの暴走する権力を制限する二大利器であった。「祖宗法」は制度的制限となり、「公議」は世論的制限となる。皇帝や権臣はあるときには「祖宗の法畏れる可からず」と敢えて公に言いふらすものの、公議を公然と無視する勇気はほとんどなかったのである。
 政治体制の整備に伴って、皇権が実権を有する状態から象徴化した状態に向かっていった。伝統中国の皇権を考察してみれば、各王朝の創立から衰微までのプロセスの中で、強大な皇権も変遷する。各王朝の皇権の変遷は歴史全過程のある段階を反映している。歴史全体の流れから見れば、実権を有する皇権が高い状態から次第に衰退していったのであるが、反対に、象徴的な皇権は低い状態から次第に発展していったのである。総じて言えば、伝統中国における皇権は、実権を有する状態から象徴化されるにあたり、二つの「最高至上」を経験していた。つまり、実際的な最高至上から象徴的な最高至上への変遷である。(図1を参照)
 この図を見ると、これは複雑な歴史を単純化、簡略化にすぎるとの疑念が生じるかもしれない。私自身、その疑いを抱く。しかし、あらゆる比喩が不完全なものであるように、あらゆる図表も完璧ではない。図表の長所は一目瞭然である点にある。この図は、皇権の変遷の基本的な趨勢だけを示したものである。勿論、歴史は曲線的に発展し、その実際の様相は複雑で多様性を呈している。
 現代政治学の理論によれば、権力(power)・権威(dignity)・影響力(influence)という三者を同一視してはならない。前述した中国伝統社会における皇権の二つの「最高至上」の変遷は、権力と権威(影響力を含む)の区別を物語るものである13。その象徴的な皇権は実は皇帝の権威といえる。皇帝の実権の衰微は、皇帝の権威と影響力の低下を意味するものではない。まったく逆に、皇帝の象徴化は皇帝の権威の増強をもたらしたのである。各王朝の皇帝がなお行政的長官の職能を果たしているとき、権力・権威は一人で握っていたといえる。図で表すと、二者は同心円の同一の円心にあるが、皇帝の行政的長官としての職能が次第に薄らいで、政府首脳たちの役割が日一日と強力になっていくと、円形は次第に楕円形となっていく。このように権力と権威(影響力)が分離して、二つの円心が形成されてくる。(図2を参照)しかし権力と権威(影響力)が分離して、二つの円心が形成されても、依然として同一の楕円に位置している。つまり権力と権威は、多くの場合、截然と区別できるものではない。権力の属性として、権威は権力と一体不可分のものである。
 注意すべき点は、これは皇帝の協力の下で各王朝の政府首脳たちの主観的な努力の積み重ねによって形成された客観的事実である。これは「権力の象徴過程は、権力側の一人芝居として行われたのでは意味はなく、つねに人々の共演を必要とするからである14」。従来の説では、皇帝権力は次第に強化されたとするが、これは表面的なものに惑わされた見解であると思う。確かに皇帝の象徴的な権威は歴史の発展とともに、いよいよ強化されてきたが、しかし権威の強化は権力そのものの強化を意味するものではない。象徴的な皇権と皇帝の実権とは区別すべきである。
 アメリカ在住の有名な学者余英時氏は、「君権と相権は従来から対等ではなく、その間に明確な限界もない。君権は絶対的な(absolute)、最終的な(ultimate)ものであるが、相権は生じてくる(derivative)ものであり、直接に皇帝から出てくるのである」と論じた15。これをみると、一つのごく古い問題が思い出される。つまり、鶏と卵はどちらが先かということである。確かに宰相等官僚が皇帝により任命されるが、皇帝でも、宰相でも、いずれも君主制という政体の必要に応じて生まれてきたものであり、その発生の先後はいえない。君主制の政体が皇帝を生んだものでもあれば、行政長官としての宰相を生んだものでもある。両者は同じ政権のシステムに属するが、ある意味では、君権は相対的な、制約されるものである。反対に相権は絶対的な、最終的なものである。明の万暦帝のように、皇帝が三十年間朝廷に出ず政務をとらなくても、政権の運営がそのまま整然と系統立てて行われていた。しかし宰相等の行政長官は一日でも不可欠である。かれらがいなければ、政権の運営が麻痺状態に陥る可能性が多分にあると思われる。万暦帝は特例であるが、史上多く子供皇帝の時期があった。その時期、皇帝本人は役割を果たしていなくとも、政権の運営は正常に行われていたのである。
 皇帝と宰相をはじめとする群臣との関係を基本とする、伝統中国の相互制約的な政治的構造は、建築物に譬えれば、従来言われるピラミッド型(pyramid)ではない。ピラミッド型は正四角錐形の構造である。ピラミッド型の構造ならば、頂上に位置する皇帝は、下の群臣からの支持を受けて、何らの制約もない。実際の状況を見ると、アーチ型(arch)の構造というべきである。アーチ型は半円形に弧を描いた構造である。窓・門・橋などの開口部の上部を、くさび形の石や煉瓦を組み上げて曲線状に構築したもの。すなわら、頂上の石或は煉瓦(ここでは皇帝を指す)には、両側の石或は煉瓦(ここでは宰相や群臣を指す)から来るプレッシャーがかかっている。このプレッシャーは支持でもあり、制限でもあって頂上を自由に活動させない性質を帯びている。上の石は下の石から、ある程度の支持とともに制限を受ける。石と石との間では、一つの統一体が構成されていて、互いに他者を排除することなどできず、相互に分離は許されない。分離すれば、構造物そのものが崩壊してしまう。
     図3アーチ型(arch)        図4ピラミッド型(pyramid)
 皇権が実権性から象徴化に向かっていったのは、最も主要な原因には政府の行政機能の増強及び政治体制の完備があったのである。これをどのように評価すればよいのであろうか。客観的意義から言えば、この趨勢は人類の政治的進化を反映しており、国家管理が家父長制の原始の形態から制度化・科学化に向かっていくことを物語っている。いわゆる「人治」から「法治」への変遷である。道徳的意義から言えば、これは人類が専制から民主に向かっていく過程を物語っている。なお、絶対的君主独裁が伝統中国に抑えられた事実は、中国での学界において長期間論争されている中国の封建社会がなぜ長く持続していたのかという難問に対し、部分的に答えるものと思われる。本書は世界史の基本法則といわれる「封建社会」という術語を使いたくないが、言い換えれば、なぜ伝統中国において王朝の寿命が一般に長かったのか、或いは近代に至るまでの文明社会が数千年にまで及んだのはなぜか。こういう問題に対し答えようとする中で、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」16というアクトン氏の有名な言葉を想起した。伝統中国では絶対的権力は不在であるから絶対的に腐敗するということは生じにくく、個別的な問題があっても、貴族政治と士大夫的官僚政治のメカニズム自体も調節できて、たえず王朝という体に活力をあたえる。これこそ中国の伝統社会が長く続いた一因であったと思われる。
  
       第五節、残される課題
 
 以上の論述を承け、もう一つの残された課題に言及すべきであると思う。それは、伝統中国の皇権が実権性から象徴性に向かうなら、なぜ立憲君主制という政体に推移しなかったのかという問題である。これについては、次のように考えている。
 第一には、中国史上の頻繁な王朝交替から、中国の皇帝は神の境地に達することができなかった。神聖とはいえるが、結局「人、固より為る可き」俗世の帝王であり、皇権が宿命的に徹底的な象徴化を遂げることはできない。
 第二には、中国史上の頻繁な王朝交替は、もともと一王朝内で既に象徴化に向かった皇権の芽を、新王朝がつみとり、実権性に回復させてしまう。政治体制が歴史の進化とともにますます整備されるにもかかわらず、繰り返される歴史的な過程が皇権の最終的な象徴化を妨げる。 
 第三には、中国の君主制の最後の王朝である清王朝は満州族が支配する政権である。中原で数百年間の民族融合を経たにもかかわらず、やはり民族間の排斥は最後まで存在し、近代に入り、「靼虜を駆逐し、中華を恢復する」と呼号した辛亥革命が勃発した。その際、欧米の共和政治の影響を受け、清王朝を倒すと同時に、君主制をも一緒に葬り去ってしまった。
 第四には、偶然性が歴史を決定づけた。私見によれば、中国の社会は自然に正常に発展すれば、近代に入り、立憲君主制政体になる可能性があった。中国の歴史はすでにその瀬戸際に立っていた。辛亥革命以前、康有為・譚嗣同等の「戊戌変法」が成功していたら、その後の中国は立憲君主制の国家となった、と仮想することが可能なのである。 
 

1近藤一成、「宋代士大夫政治の特色」(『岩波講座 世界歴史9 中華の分裂と再生3〜13世紀』、一九九九年)
2平田茂樹、「宋代の言路官について」(『史学雑誌』第一〇一巻、第六号、一九九二年)
3冨田孔明、「宋代史における君主独裁制説に対する再検討」(『小田義久博士還暦記念東洋史論集』、一九九五年)
4宮崎市定、『東洋の近世』三(教育タイムス社、一九五〇年)
5中国史上の王朝は家天下というイメージを持つが、国家の視点でみれば皇帝権力は公 的なものであるとはいえる。
6小林義広、「欧陽脩における諫諍と輿論」(『東洋史研究報告』第一六号、名古屋大学、一九九一年)
7寺地遵、「宋代政治史研究方法試論」(『宋元時代史の基本問題』、汲古書院、一九九六 年)
8注(一)を参照。
9青山定雄、「北宋を中心とする士大夫の起家と生活倫理」(『東洋学報』第五七巻、第一 ・二号、一九七六年)を参照。
10注(1)を参照。
11『宋史』巻四〇五、「劉黻伝」。
12徐珂『清稗類抄』、中華書局整理本五二五〇頁。
13本書で権力と権威という概念は政治学上の一般的な意味で用いているのである。つ  まり、権力とは、他者をその意志に反して行動させることができる力をさす。他者の政 治的行動の統制力として現れる場合は政治権力という。権力行使は価値剥奪と価値付与 (利益・名誉誘導など)という二側面がある。礼教を重視する中国社会において、とく に後者の場合が多かったと思われる。権威とは、発信者の発するメッセージがその内容 を問わずに自発的に受信者に受け入れられる状態をさす。政治的権威の成り立つ根拠は、 M.ヴェバーの言う支配の正統性、つまり倫理的正しさだけでなく、情動や呪術や神話 にまで拡っている。これは皇帝の権威にまさに合致すると思われる。
14『権威と権力』「序章」七頁(小谷汪之執筆、岩波書店、一九九〇年)
15余英時『歴史與思想』五〇頁(台湾聯経出版事業公司、一九七六年)
16Acton, John Emerich Edward Dalberg.“Essays on Freedom and power” Boston. 1948.pp364.
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