中国の正月今昔談
 
                                                                       
  
     一、中国正月の時期と言い方
 
 周知のように、いまの日本では、正月と言うと、時期としては西暦の一月と同じであり、節句としては元旦と同じである。それに対して明治五年(一八七二)に廃止された旧暦の正月は旧正月と呼ばれる。ところが、中国では、正月と言うと、旧暦の正月だけを指し、西暦の年始の月はただ一月といわれる。今の中国は日本と同じように、西暦、つまり太陽暦を採用しているが、これは百年未満の歴史しかないものである。一九一一年、清王朝の帝政終結とともに、中華民国が建てられた。その際、臨時大統領孫文が「夏正を行い、農時に順(したが)う所以なり、西暦に従い、統計に便(べん)する所以なり」といい、西暦の一月一日を新年(元旦)、旧暦の正月一日(初一)を春節(しゅんせつ)とそれぞれ定めた。それから中国人とっては、二分化した新年と春節という節句を相次いで迎えるようになった。
 しかし、一九一一年以前、中国では節句としてのお正月が一つしかなかったのである。古代の中国は暦法が非常に発達していた。早くも三千年ほど前、農耕民族であった中国人は動植物など自然の観察から、およその季節感を体得した上で、天文学の知識に基づいて暦を作った。古代国家の成立とともに、暦を発行することは支配者が支配権を確立する一つの手段として歴代に重視されていた。古代中国の暦は、俗に陰暦(いんれき)と呼ばれるが、実際は基本的に太陽と月の運行の両方を結んで作った太陰太陽暦(たいいんたいようれき)であった。ところが、歴代王朝に発行する暦によって正月の時期はそれぞれ異なっていた。いまの旧暦と比べると、初冬の十月を正月とした秦暦(しんれき)も、十一月を正月とした周暦(しゅうれき)もあり、真冬の十二月を正月とした殷暦(いんれき)もある。前漢の武帝の太初元年(紀元前一〇四)に発行した『太初暦(たいしょれき)』は、初めて古代の夏暦(かれき)と合わせて今の旧暦の正月と同じようになった。その後の数千年間、歴代王朝により数十回ほど暦が発行された。暦法はますます綿密で正確になったが、正月はいまの旧暦と同じように変わらなかったのである。それゆえ旧暦を夏暦と呼ぶ人もいる。また農業と密接な関係があるため、農暦(のうれき)と呼ぶ人もいる。六〇四年に推古天皇(すいこてんのう)が元嘉暦(げんかれき)を導入してから西暦を採用するまで、日本は前後して六回中国から暦を導入したことがある。つまり日本の旧正月は中国の正月と同じ時期である。また同様に、朝鮮半島やベトナムなどの東南アジアもそうである。それにより、漢字文化圏の親近感を切に感じられるであろう。
 正月の言い方については、もう一つのことを説明すべきと思う。つまり「正」という文字の発音の問題である。もともと「正」は「正確」の「正」と同じ、中国語の去声という第四声で「zhニng」と読んでいたが、紀元前二二一年に中国全土を統一して皇帝制度を建てた秦の始皇帝贏政(えいせい)は、自分の名前「政」の発音を避けるために、同音字である「正」を平声である第一声の「zhテng」という読み方と規定した。その後、避諱(昔、君主や尊者の実名の字を避けて直接に話したり、書いたりしないこと)と無関係に、中国人は依然として習慣的に正月をいう場合に「正」を「zhテng」という。
 
     二、節句としてのお正月
 
 ほとんど年中無休といえる農耕に従事する人々にとって、真冬の農閑期は唯一の休暇であろう。それで一時的に労働から離れ、神に奉仕し、大きな消費を伴うハレの日を固定のリズムとしてつくりあげたのが、お正月の由来であると思われる。年始の日はお正月の本番として、元旦或いは元日と呼ばれる。南宋(なんそう)の呉自牧(ごじぼく)『夢粱録(むりょうろく)』巻一に「正月朔日、之を元旦と謂う。俗に新年を呼ぶと為す。一歳の節序、此、首と為す」という。現存する資料を見ると、元旦という言葉は晋(しん)の傅玄(ふげん)(二一七〜二七八)「元旦朝会賦」からが最初の出典であったが、元日という言葉はもっと早く『尚書(しょうしょ)』「舜典(しゅんてん)」に見える。昔からお正月をめぐって、その前後にいろいろな行事を行い、旧年を送り新年を迎える。宋代の有名な政治家かつ文学者である王安石(おうあんせき)は「元日」という詩に
   爆竹声中一歳除、(爆竹声中に一歳除き、)
   春風送暖入屠蘇。(春風暖を送りて屠蘇に入り。)
  千門万戸〓〓日、(千門万戸に〓〓たる日、)[〓:日+童]
  総把新桃換旧符。(総て新桃を旧符に換える。)
と一千年前の中国のお正月の習俗を生き生きと描いた。この詩に触れた習俗が今日までほとんど変わらないまま続けて行われている。さて、中国の主なお正月の習俗を紹介してみよう。
 前述した二十世紀の初頭からの新旧暦の並行によって、元旦或いは新年は西暦の一月一日を指す代わりに、春節を旧暦のお正月と言うようになった。中国では両方とも祝日であるが、やはり本番の祝祭は春節なのである。この西暦と一ヶ月くらい遅れる春節は、中国の大部分の地域でちょうど春が大地を訪れて万象が新たになる時期に当たって、中国人にとって最も重要な祝祭日となった。中国大陸・香港・台湾・シンガポールなどの地域では元旦は公的な休暇がほとんど一日だけであるが、春節は少なくとも二、三日の休暇と規定されている。実は昔からの習俗によって、お正月のお祝い行事は〓月(らいがつ)(旧暦十二月)二十三日から正月十五日までほぼ一ヶ月間長く続けられている。[〓:月+昔]
 
     三、お正月の習俗
 
 お正月のお祝いは、中国語で「過春節」また「過年」(春節或いは年を過ごす)といわれる。「〓月二十三」の日は「過小年」といわれ、大掃除・「弁年貨」(年越し用品の用意)などのお祝いの準備段階に入る。干支を紀年とする旧暦なので、来る年に当たる十二支の動物がお正月のシンボルとして、あちらこちらに描かれており、祝祭の雰囲気に満ちている。また、お正月の休暇になる前の間、多くの会社・団体・政府機関による宴会が開かれる。面白いのは宴会の名目として、その年の苦労と悩みを忘れる日本的な忘年会と言わず、普通は迎新会(げいしんかい)といわれる。それは、かなり前向きな発想によるものであろう。「過年」の年という文字は、後漢(ごかん)時期に成立した中国の最古の字典である『説文解字(せつもんかいじ)』の解釈によると、禾(いね)により構成されて、穀物の成熟を表す。やはり農耕社会に生じるものであろう。しかし、民間の伝説によれば、「年」は毎年の大晦日の夜に出る人と家畜を食う猛獣である。その猛獣は火の明かりと赤い色、大きな音を怖がったと言われたため、お正月に爆竹を鳴らしたり、赤い桃符(とうふ)を貼ったりする、という習俗ができた。   
 春節の前日は除夕(じょせき)といい、つまり日本の大晦日に当たる。その日は実際に翌日の春節より重要と見なされ、欧米のクリスマス・イブのような一家団欒の日である。除夕の数日前、例外なく鉄道などの交通機関がラッシュの時期になり、遠い異郷にいる人々は必死に除夕の前に実家に帰省しようとする。この習俗は早く南北朝時代には、もはやあった。宋代の孟元老(もうげんろう)『東京夢華録(とうけいむかろく)』巻十「除夕」に「是の夜、禁中(宮殿)の爆竹山呼し、声外に聞く。士庶の家、爐を囲み団坐し、旦に達して寐まず、之を守歳と謂う」と記されている。今でも守歳(しゅさい)(年を守る)という言い方がある。ここ二十年近く、日本の紅白歌合戦のよう中国大陸の中央テレビ局が主催する春節聯歓晩会という娯楽的な番組が、大陸の中国人が必ず見るものとして、伝統的な祝祭日に新しい内容を添えるようになった。夜中になると、日本の年越しそばではなく、年越しギョウザを食べる。ギョウザを食べるのは、その形が昔のお金であった元宝(馬蹄銀)に似て、来る年に金儲けを祈るためだという説があるが、ギョウザ(餃子)は中国ひいては世界で最初の紙幣である「交子(こうし)」という言葉と文字の形も発音も近いということが一因ではないであろうか、と筆者は考える。
 近代産業社会は、宗教的要素が社会・文化において小さな役割しか占めなくなったものの、除夕の年越しギョウザを食べる前に、家族に大きな貢献をなす祖先を拝むことはやはり多くの家族によく見られる。さらに翌日の春節、商業社会の香港・台湾・シンガポールなどのところ及びそれに向かっていく中国大陸では、日本の初詣のように、大きなお寺に行き、一年の無事・繁栄・夢の実現などを祈願する。
 春節の日には初詣を除き、主な行事としてお正月の祝いを挨拶する「拝年(ばいねん)」を行う。順番は一般に家からお隣ひいては職場の同僚までに至る。敬老の伝統をもつ中国は、子どもが年寄りに「拝年」をすると、「圧歳銭(あっさいせん)」という赤い紙で包んでいるお金がもらえる。会社の場合、社員は上司から「圧歳銭」のような「紅包(ほんぼう)」がもらえる。その「圧歳銭」と「紅包」は日本のお年玉と同じである。この「拝年」の習俗も昔からあったものである。清代の顧鉄卿(こてっけい)は『清嘉録(せいかろく)』に「男女は次を以て家長を拝み畢り、主者、老幼を率い、隣族戚友に出謁し、或いは止だ弟子を遣わし代賀するのみ。之を拝年と謂う」と述べている。拝年の時に挨拶言葉として、「過年好(ごーねんこう)」「新年快楽(しんねんかいらく)」(新年おめでとう)「恭喜発財(こうきはさい)」(お金が貯まりますように)などがある。対面する拝年だけでなく、年賀状もある。明代の有名な文学者である文徴明(ぶんちょうめい)は「賀年」という詩に「見面を求めず惟だ謁を通すのみ、名紙朝より来るは蔽廬に満ち」(不求見面惟通謁、名紙朝来満蔽廬)と年賀状がいっぱい来たことを描写している。数年前より中国大陸では日本のようなお年玉つきの官制年賀状も発行し始めた。
 春節のとき、中国的おせち料理はギョウザを除き、日本と同じように、「年〓(ねんこう)」[〓:米+羔]というお餅もある。それらの定番のほか、多くのご馳走の家庭製中華料理が用意されている。
 中国のお正月の雰囲気は以上述べることだけでなく、多くは耳に絶えずこだましている爆竹の音、および家々の飾りからさらに感じられる。爆竹は魔を追い払うために、最初は竹を火に入れ、ぱんぱんと響きを出したが、火薬を発明した後、爆竹の製造が火薬の主な用途となった。除夕の夜中の耳が聞こえなくなるほどの爆竹の音は、砲煙もうもうたる戦場を連想させる。また日本の子どもが花火をするように、春節のときに爆竹をすることは中国の子どもの楽しいことになった。ところが、北京・上海などの大都市が防火の理由で相次いで爆竹を鳴らさないようにする禁止令を出したため、ちょっと寂しくなるのであろう。でもお正月の町にあちらこちらに見られる南方の獅子舞或いは北方の〓秧歌(ヤンコ踊り)[〓:手偏+丑]空まで響く銅鑼や太鼓の音に伴って、依然として濃いお正月の雰囲気を浮き立たせている。 
 爆竹より文化的なお正月の飾りは「春聯(しゅんれん)」というものである。赤い紙で書いている春聯の最初の状態は、やはり前出の王安石の詩が触れる桃符であった。昔、赤い桃の木を長方形の板にして縁起のよい言葉を書き、家に飾り、魔除けをする。最初の春聯は『宋史』巻四七九「西蜀孟氏世家」によれば、五代の後蜀(ごしょく)皇帝孟昶(もうちょう)が桃符に書いた「新年納余慶、嘉節号長春」(新年に余慶を納め、嘉節は長春と号す)とされる。「春聯」は対聯(たいれん)の一種類として漢詩と同じように対句で書かなければならない。宋代から桃符は赤い紙に改められて「春貼紙(しゅんちょうし)」といわれる。その後、明の太祖の提唱によって、次第にお正月の前後、玄関の両脇などに赤い紙を貼る祝い文という春聯が広く全国的な習俗となった。お正月の春聯は元々魔除けをするものを知識人の文化普及に転換されたと考えられる。春聯のほか、玄関ドアの中央などのところに逆さに貼る同じ赤い紙で書いた大きな「」などの文字も見られる。逆さに貼るのは、中国語で「倒」という発音が到るという意味の「到」と同じなので、「幸福の到来」を表す。農村では、家々の窓と壁に貼っている窓花(そうか)(赤い紙を切った模様)や年画(ねんが)(お正月のお祝い絵)も見られる。
 中国では、お正月のエピローグは旧暦の一月十五日の元宵節(げんしょうせつ)である。昔は道教に関わり、上元節(じょうげんせつ)とも呼ばれる。またその日は提灯に灯をともして飾るので、灯節とも呼ばれていた。都市ではその日に公園などの広場でよく園遊会が開催され、「猜灯謎(さいとうみ)」という謎解きの文化的な遊びが行われる。家ではやっと一家団欒を家族で囲んで「元宵」という餡入りの餅米の団子を食べる。これで中国のお正月が正式に終わり、伝統的な新年度が始まるのである。
 近代化へ急速に向かって走る中国大陸および台湾・香港・シンガポールなどの地域において、お正月は最も伝統的な色つけの祝祭であろう。お正月の習俗は各地によって些か違っているが、その民族的な伝統が、以上の諸地域の人々の心に深く根を下ろしており、近代化されても変わられないものと言える。筆を置くに当たり、同じ漢字文化圏にあるアジア諸国・諸民族のお正月の習俗に関する文化的比較研究は、かなり有意義なことであると改めて思われる。
                    (『アジア遊学』第46号「アジアの正月」特集掲載、2002年12月15日発行)
   
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