「祖宗法るに足らず」
             ――「十一世紀中国の改革者」王安石の変法――
                                 王 瑞来
  爆竹声中一歳除       爆竹声中に一歳除き
   春風送暖入屠蘇       春風暖を送りて屠蘇に入り
  千門万戸[日+童]々日   千門万戸に[日+童]々たる日
  総把新桃換旧符       総て新桃を旧符に換える
 いまより十世紀前のある年の旧暦元日に、一人の士大夫が揮毫して以上の詩を書いた。その士大夫は宋代の最大の改革を主宰した王安石である。詩では、魔よけの新旧桃符の取り替えという元日の風習を借りて、改革の決意を表している。中国史上において、王安石はよく争議を呼ぶ人物であった。文学家としての名は唐宋八大家の中に並ぶが、政治家としての毀誉褒貶はまちまちであった。その毀誉褒貶は主にかれが主宰した改革をめぐって生じたものである。さて、いったい王安石とはどのような人間であろうか、その改革とはどのようなものであろうか、歴史の絵巻をひろげて一千年近く前に遡ってみよう。
 
     一、名、天下に重んぜらる
 
 王安石(1021年〜1086年)、字は介甫、晩年の号は半山、撫州臨川(今の江西撫州)の人である。家柄は低く貧しく、父の世代に初めて官途についた。王安石は父の官職の異動に伴って各地に遷りながら少年時代を送った。慶暦二年(1042)に二十一歳という、宋代進士の平均年齢より若く、かつ第四名の優秀な成績で進士第に登り入官した。二十四歳で[菫+?]県(今の浙江[菫+?]県)知県となった。県政を主宰した四年間に「堤堰を起こし、陂塘を決し、水陸の利を為す。穀を貸して民に与え、息を出して以て償わしむ。新陳相い易へしめ、邑人之を便とす」という『宋史』巻三二七「王安石伝」の記録がある(以下、引用文は出典を示さなければすべて本伝より)。その水利工事と食糧貸借は、後の王安石新法の水利法と青苗法の原型といえる。その後二十年近く、王安石は次々と舒州通判、常州知州、江東提点刑獄を歴任した。長く地方官として政務を勤めて民衆の苦しみと時弊を深く認識し、かつ豊富の経験を積んだ。それによって彼なりの治国方策が次第に形成された。その間、文彦博・欧陽脩などの高官に推薦され、中央で館職という文人向きの軽くて楽な要職につく機会が何回もあったが、いずれも辞退した。これは当時の、権門を駆け回って官位を求める風気とは好対照を成した。そのために王安石は士大夫の中で高い声望を集めている。士大夫たちは「其の面を知らざることを恨」み、朝廷も「美官を以て?へんと欲する毎に、惟だ其の就かざるを患」いた。
 嘉祐三年(1058年)、王安石は上京して財政業務を担当する三司度支判官となった。長い地方勤務の体験を全国の財政状況と結びつけて、いっそう広い視野で時弊を痛感し、宋代士大夫の天下を自任するという特有な責任感にも駆られて、王安石は「上仁宗皇帝言事書」という万言書を呈上した。その上奏文では「天下の力に因りて、以て天下の財を生じ、天下の財を収めて、以て天下の費に供せん」という主張を提出した。これは後の新法の基本綱領となった。「後、安石、国に当たるに、其の注措する所は、大抵皆な此の書を祖とす」という。ところが、在位がすでに三十余年に及び、かつ慶暦新政の失敗に立ち会った仁宗と現状に安んずる朝廷大臣たちは、改革の気が全くなかったため、王安石の万言書は梨のつぶてとなった。
 それにもかかわらず、万言書の上奏は王安石の声望をいっそう高めた。それから相次いで直集賢院、同修起居注を担当し、ついに皇帝の詔勅を起草する知制誥となった。宋の真宗朝から次第に形成された士大夫政治において、士大夫の与論と派閥関係は皇帝権力以上に人事決定を左右する二つの要因である。中央政治の権力中枢は士大夫層のエリートが独占にしている。それへの参入は、ほとんど知制誥→翰林学士→執政というルートでなされる。王安石が知制誥となったのは、士大夫のエリート層に入ったことを意味し、また執政になる道もすでに開かれた。それは王安石がその政治的理想を実現する時期までもはや遠くなくなったことでもある。しかし、知制誥を担当する王安石は、知制誥たちの皇帝詔勅に対する修正権を守るために、執政たちと対立していた。これは王安石が順調に権力の中枢に入る障碍となった。それゆえ、仁宗に継いで英宗が在位した数年間には、昇進の見込みがなく、腕を振るうことができない王安石は、母の喪に服するという理由を借りて離職し、「終いに英宗の世は、召さるるも起たず」、つまり、朝廷が何回も起用してもすべて辞退した。王安石のこうした行動はかれの声望をさらに高めた。
 
      二、祖宗法るに足らず
 
 君主制下の士大夫政治では、すべてのことは皇帝の名義で行わなければならない。これはいわゆる君主独裁ではなく、執政者は皇帝の権威を利用して大義名分で施政の障碍を除き、号令をかける必要がある。英宗が死に神宗が即位したことは、歴史的に王安石に君臣が巡り会うチャンスを与えた。
 そのときの時局は表面的には静かで、いわゆる「百年無事」であったが、実は至る所に危機をはらんだ、「山雨来たらんと欲して風楼に満つ」という状態になっていた。国内の場合、宋初以来の「兼併を抑えず」という政策は、官僚地主の土地併呑をますますひどくした。その「富者は弥望の田有り、貧者は卓錐の地無し」という土地の極度の集中は、国家財政収入の減少をもたらしただけでなく、情勢の不安定を招いた。四川・河北などの各地にたえず農民反乱が起こっていた。一方、「冗官、冗兵、冗費」といわれる「三冗」は財政難の局面をもたらした。たとえば、宋初の軍隊三十七万人が、仁宗朝になると、百三十万人に達した。軍事費の予算は全国の財政収入の八十パーセント近くを占めている。官員数も宋初から州県数がほとんど増えていないが数倍に増加された。国外の場合、遼は宋朝内部情勢の不安を見て?淵の盟で決まった歳幣数に満足せず、歳幣増給を要求し、宋朝はそれに応えて、遼と西夏という両国に年間数十万の財物を納めている。巨額の財政支出は政府に収支が相償わない状態をもたらした。たとえば、英宗治平二年(1065年)の財政赤字は千五百万両に達した。政府は財政難を民に押しつけ、宋中期の租税は宋初よりも数倍に増えた。それはいっそう政局の不安定をもたらした。危機に直面する中、「積貧積弱」の状況を改変するために、改革を求める叫びがますます高まってきた。
 その情勢下、王安石が登場した。起用された王安石は翰林学士兼侍講の身分を利用して神宗に経典を講義する際に、自分の改革主張を詳しく説明し神宗の改革意欲をいっそう燃え上がらせた。二十代の神宗は盛名を有する王安石を非常に信任して、本来宰相によって決めることさえも王安石の意見に聞かせた。二年足らず後の煕寧二年(1069年)には、参知政事(副宰相にあたる)に任命されて、正式に政策決定の執政集団に入った。そして翌年さらに宰相に任命された。
 王安石は神宗に変法に対する心配を解消させるために、「天変畏るるに足らず、祖宗法るに足らず、人言恤うに足らず」という「三不足説」を出した。これはまことに世を驚かし俗人をびっくりさせる説であった。中国史上、このような勇気を持つ人は極めて少ないであろう。歴代に重んじられた天命と与論をひとまず置き、祖宗の法を重視する宋代では、この話はまるで大逆無道のようであっただろう。王安石の「三不足説」は皇帝権を制限することにマイナス的な影響をもたらしたかもしれないが、改革への抵抗力を除くためにはやむを得ないことであったと思われる。その策略の一面を除いても、「三不足説」は王安石思想の時代を超えた進歩性を現すといえよう。
 
     三、君を得て専政す
 
 「天下盛んに王安石を推して、以為らくは、必ず能く太平を致すべしとす」と黄庭堅がいうように、衆望にこたえて、参知政事となった後、王安石の改革はあらしのように行われた。宰相という最高の政策決定権を手にする前に、王安石は「中書の外に又た一つの中書有り」といわれるように、今日の経済企画庁にあたる制置三司条例司という機関を設置して、全面的に改革を主宰させた。中央の官庁だけでなく、地方の各路に提挙常平官を設け、州県の新法実行を督促した。煕寧二年から九年にかけて、王安石は呂恵卿・曾布と一緒に、富国強兵をめぐって次々と新法を実施した。それらの新法は内容と役割によって三つの方面に分けられる。
 第一は、国家供給の調整と商人に対する制限。これは主に均輸法・免行法と市易法である。
 均輸法とは、東南六路の発運使に都の実需と在庫状態を調査させ、「貴を徙して賎に就け、近を用いて遠に易える」という原則によって、「便宜蓄買」させることである。これは従来の定額制より、供給が保障された上、政府の支出と民の負担を軽減した。
市易法とは、市易務を設け、商人が財産を抵当に入れて二割の利息を払って政府から融資をうけたり、平価で買い付けた貨物を掛売りしたりすることである。最初は都に実施された市易法だが、後にほかの商業都市にも押し広められた。
  免行法とは、政府への物品供給を引き受ける開封の各業種の商店が、利潤の多寡によって市易務に免行銭を納め、従来のように順番に現物或いは人力を政府に提供することを廃止するものである。免行法の実施後、宮廷が雑売場と雑買務を通して物品を購入するようになった。これは商人の利益を保護しながら、政府の収入も増加することを目指した。
 第二は、国家と農民との関係を調整する政策および農業生産を発展させる措置。これは主に青苗法・募役法・方田均税法と農田水利法である。
 青苗法とは、王安石が自分の?県での実践と陝西地方のやり方から、凶年に備える常平倉・広恵倉の銭穀を元金として、正月と五月という端境期に自由意志の原則で農民に貸付をして、収穫のときに夏秋の両税と一緒に返済することである。これは農民が高利貸しの搾取を避けながら、政府も利息の収入を得られることになった。
 募役法は免役法ともいう。宋代では家庭の財産収入状況によって戸の等級が分けられる。従来、戸等によって順番に衙前などの州県の小役人を担当していた。募役法はこのやり方を廃止し、州県の官庁によって役人を雇う形に変わった。毎年の雇用経費は、州県官庁がその予算を作り、戸等によって割り当てて、免役銭を納めさせる。従来の小役人を担当しない官戸と女戸も相応する戸等で免役銭の半額である助役銭を納めた。これによって政府の収入が増加しただけでなく、それまで役を担当しなかった特権者も役銭を納めなければならなくなった。
 方田均税法とは、毎年九月に土地を測量して肥沃の程度によって帳簿に登録し、それによって納税額を決めることである。これは地主の脱税を防止した上で政府の土地税を増収した。
 農田水利法とは、戸等によって資金を寄せ集め、水利工事を興すことである。これも王安石の地方官時代のやり方の拡大化であった。
 第三は、統治基盤と軍事を強化する措置。これは主に将兵法・保甲法などである。
 将兵法とは、北方の各路に続々と百余りの将を設け、各将に実戦経験と武芸を有する正・副将を置き、軍事訓練を行うことである。将兵法が行われる州県では、地方官は軍政に関与できない。将兵法の実施は軍隊の戦闘力を高めた。
 保甲法とは、農民を十家で一保にし、五保を一大保に、十大保を一都保として、一家庭に二人の成年男子がいれば、一人が保丁を担当し、住民の中で財力と能力がある人によって保長・大保長・都保長を担当させる。同じ保の人が相互に監督し、治安を維持する。農閑期には軍事訓練を行う、というものである。保甲法を実施する目的は、農村に民兵組織を立てて、軍事費を節約し、地方自治によって反乱を防止し、さらに戦時になると、兵隊に編入できることであった。
 以上を除いて、王安石は科挙と学校教育制度の改革を行った。王安石の『三経新義』は教科書として指定され、人材養成を目指す三舎法が実施された。
 既得の利益が犯されるとか、改革の理念が違うとか、王安石の新法は朝野の内外から強い反対に出会った。しかし結局改革は頑強に長く堅持されて遂行したのである。その要因は二つあると思われる。
 一つは王安石と神宗との親密な関係である。神宗は当時「孔子」とされる王安石にこの上もない崇敬の念を抱き、かつて王安石は聖人でしょうかと程に聞いたことすらあった。当時の宰相曾公亮は「上、安石と一人の如し」と言っていた(『続資治通鑑長編』巻二一五)。『元城語録解』巻上には「(王安石)君を得るの初め、主上と朋友の若し。一言も己の志に合わざれば、必ず面に之れを折り、反復詰難し、人主をして弱に伏さしめて乃ち已む」と記されている。こうした皇帝権を吸収する宰輔専政こそ宋代士大夫政治の基本的な特徴であった。これも王安石の改革遂行の根本的な要因であった。
 もう一つは、改革集団の結成と厳しい処罰手段の採用である。王安石は改革への障害を取り除くために、中央から地方まで改革の意欲がある若手に破格の抜擢をして、要職を与える一方、改革に反対する人を断固として罷免した。その発言権をもつ諫官・御史は直接に皇帝を経ない「白帖子」で罷免し、執政大臣は皇帝権を借りて罷免した。それによって組織上での改革遂行を守った。
 
     四、改革は失敗したのか
 
 王安石の改革は失敗をもって終わりを告げたという見方は、学界の普遍的な認識である。この見方は王安石本人の進退によってされたのかもしれない。確かに、「天変畏るるに足らず」といった王安石は、ついに反対派の攻撃と改革派の内紛によって、旱魃と天象変化という表面的な理由で二回宰相を罷免された。しかし、王安石の不在は新法の実施に大きな影響を与えなかった。神宗が死ぬまで新法は徹底的に実行されていた。その十数年間の新法実施はすでに一定の程度で富国強兵の目的を達成された。北宋の版図も建国以来最大となった。神宗を継いで即位した哲宗の前期に、新法の反対派が執政して、新法をほとんど廃止したが、哲宗後期と徽宗時期になると、「紹聖」と「崇寧」という年号が示すように、新法が復活され、王安石は孔子と一緒に尊崇された。
 ところが、王安石の変法は先の范仲淹の、慶暦新政の官僚体制を整頓する経験を見落とし、単に財政改革に重きをおいた。これによって、理論上では実現可能な新法も、実施するプロセスでは、地方の官吏に悪用されて多くの弊害を生じた。さらに最初の王安石と司馬光のような改革の理念と方式をめぐる争いは、個人的な恩讐の党争に転じた。激しい党争が繰り返して続いて、ついに女真族の金の侵入によって北宋は滅亡した。新法を作り出した王安石はそれで千古の罪人となってしまったのである。
 今日から見れば、王安石の「祖宗法るに足らず」という政治的勇気はひとまず論じないにしても、かれの「賦を加えずして国用足る」(『宋史』巻三三六「司馬光伝」)という経済的手段での治国の実行は、実に先駆的であった。王安石の変法は、世界的規模で深遠な影響がある。二〇世紀三〇年代にアメリカ政府がとった農業不景気を脱出する対策は、王安石の青苗法と市易法を参考したという説もある。レーニンの著作ではロシアの土地問題を論じる箇所に「王安石は十一世紀中国の改革者」という注を施している。晩年に宰相を罷免された王安石はつねにロバに乗って金陵の山の小道をうつうつと散策したという。そのとき、かれは死後の毀誉褒貶をどう思っただろうか、二十一世紀にはいって、かれの改革が新たに重視されるとはよもや思いもしなかったのではなかろうか。
(『しにか』20021月号、特集:改革者で見る中国史)
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