「倭」の本義考――あわせてその意味変遷を論ずる――
 
          はじめに
 
 新しい歴史教科書をつくる会が編纂する『新しい歴史教科書』に
  紀元前1世紀ごろの日本について、漢の歴史書『漢書』には「倭人」(原著者割注:中国人が日本人を指してよんだ語)が100余りの小国をつくっていたと書かれている。『後漢書』の「東夷伝」には、1世紀中ごろ、「倭の奴国」が漢に使いを送ってきたので、皇帝が印を授けたと記されている。「倭」も「奴」も、決して好意的な意味の文字ではない。中国皇帝の権威を示すために、中国の歴史家はつねに周りの国々を見下す言い方をした。東夷も「東の野蛮な人々」の意味である(市販本32ページ)。
と書いている。筆者はこれを読んで、幾つかの疑問が生じた。一つは、「倭人」という言い方は本当に「中国人が日本人を指してよんだ語」であろうかということ。もう一つは、「倭」という文字は本当に「決して好意的な意味の文字ではない」のであろうかということ。また「倭」は本当に「東夷」と同じであろうかということ。さらに「東夷」は本当に「東の野蛮な人々」という意味であろうかことである。最近、『新しい歴史教科書』の問題点については、各分野の方々が各視点からの指摘を数多くおこなっているが、以上の記述に関する指摘は筆者の見る限りでは皆無であった。考えてみると、これは『新しい歴史教科書』の独自の見解というより、倭という文字が日本を指して言う場合に、悪い意味があるという、誤解が偏見を呼んで、日本社会では一般的な常識となっているように思われる。
筆者があえてこのような疑問を提出するのは、いささか非常識だと思われるかもしれないが、この問題の究明は、決して無意義ではない。そこで、改めて「倭」という文字の本来の意味とその変遷について考察していきたい。
 
          一、「倭」の本義について
 
 この「倭」という文字について,まず,現在見られる一番古い文字である甲骨文字と金文を調べてみたが,結局見つからなかった。最も古いものは,『詩経(しきょう)』(紀元前11世紀〜紀元前476年の詩)「小雅(しょうが)」「四牡(しぼ)」の「周道倭遅」という詩句に見えるものである。この「倭遅(いち)」とは単独で意味をなさない連綿詞として,回って遠いさまをいう。これは貶す言葉ではない。
 次に春秋時代(紀元前770年〜紀元前476年)において,倭は人名用字として使われていた。魯国の国王である宣公は倭()と名乗っている。魏晋南北朝時代において「倭堕髻(わだけつ)」というヘアスタイルがあったようである。『楽府詩集(がふししゅう)』「陌上桑(はくじょうそう)」にも「頭上倭堕髻,耳中明月珠」とある。また「倭妥(わだ)」という美しさを描写する語彙もある。明代の著名な劇作家湯顕祖(とうけんそ)の有名な『牡丹亭』には「娉停倭妥」とある。
 さらに中国史上において漢語以外の地名・物産名などの音訳として,倭はよく使われている。例えば,河川名としての倭肯河(わこうが)(吉林(きつりん)省宝清(ほうせい)県に源を発する)と倭西們河(わせいもんが)(黒竜江省呼瑪(こま)県を経由して黒竜江に注ぐ河),地名としての倭赤(わせき)(新疆ウイグル自治区の県),物産名としての倭瓜(わか)(まくわうり),などである。
 以上で見てきたように,「倭」という文字は,それぞれ発音が異なるにもかかわらず,いずれもけなす意味に用いる言葉ではないことがわかる。この点については,大昔から中国側の辞書も日本側の辞書(例えば諸橋轍次『大漢和辞典』,白川静『字統』など)もともに明らかに示している。もちろん辞書において,伝説中の醜い女をいう「倭傀(いかい)」という言葉があるが,それは「人偏+此と人偏+隹(ひき)」の仮借字であって,そして「倭遅」と同じように連綿詞であり,単独の一文字だけでは独自の意味を持たないものである。
 「倭」という文字には悪い意味がないが,「倭奴(わな)」という言い方には悪い意味があるではないか,という質問を出される方がいらっしゃるかもしれない。たしかに『大漢和辞典』「倭奴」という項目には「古,中国人が日本国人を賎(いや)しめていった語」と説明してある。しかしこれも誤解だと思う。「倭」と「倭奴」という日本人或いは日本国を指す言い方は,おそらく当時,中国に渡来した日本人が自己紹介するときに,中国人が聞き取った発音に基づいて考え出した文字と思われる。仮にその発音に基づいて表記した文字に,ある程度の意味が含まれているとしても,前述したように,「倭」という文字自体には悪い意味が全然ないのであろう。一方,「奴」の場合,確かにこの言葉は主な意味として奴隷というイメージが強いものであるが,実は漢魏時代において「阿奴」という愛称もよく使われたのである。その一例として,『魏書(ぎしょ)』巻2「道武帝本紀」では,五胡十六国時期における後燕(ごえん)の魯陽王(ろようおう)の名前が「倭奴」であると記載されているのである。同じ記載はまた『資治通鑑』巻108「晋紀」にも見られる。その「倭」の発音は「烏禾反」と記され,つまり日本をさす「倭」と同じ発音である。それを見れば,「奴」は必ずしも悪い意味とはいえないであろう。「倭」と「倭奴」はいずれも当時の日本人の発音を聞いた中国人がつけた音訳当て字である。そして,当時の日本人が受け入れ,そのまま流布し,かつ使用されるようになった。また隣の朝鮮半島での日本或いは日本人への呼び方として使用したのである。これについては,小学館『国語大辞典』の「倭」の項目では「昔,中国や朝鮮で日本を呼んだ称。また,日本の自称」と明確に表現している。
 しかし一方で,中国の史書には確かに日本人が「倭」を嫌(いや)がって「日本」に改名したという記事もある。『新唐書(しんとうじょ)』巻220「日本国伝」に「咸亨(かんこう)元年,使を遣わし,高麗(こうらい)を平(たい)らげるを賀う。後に稍や夏音を習べば,倭の名を悪(にく)み,更めて日本と号す。使者自ら言う,国,日の出づる所に近し,以て名と為す」と記している。これはどう理解すべきであろうか。以下,その改名までの経緯と日本という国号の成立過程についてすこし考証してみよう。
 国名としての「倭」の用例としては,まず戦国秦漢の間に成立したとされる『山海経(さんかいきょう)』にあった。『山海経』巻12「海内北経(かいないほくきょう)」に「蓋国(かいこく),鉅燕(きょえん)の南,倭の北に在り。倭,燕に属す」と記している。ただしその倭の地理的位置が日本列島であるかどうかは甚だ疑問である。また西周成王のとき,倭人が暢草を貢献したという記事は,後漢王充の『論衡』の「異虚」「儒増」「恢国」にそれぞれ数カ所見られる。それらの記事と史書の中の記事とを結びつけて考えれば,「倭」という日本列島の国またはそこの住民を表す音訳の当て字は,遅くとも,秦漢時代にすでに定着したと言えよう。
 ところで,「倭」は単に音訳の当て字だけで,なんの意味も含んでいないが,隋唐以後,次第に漢字文化を多く受容し,また太陽崇拝という伝統を持つ日本人は,「日本」という国号を好むようになったのである。これこそが「倭」を捨てて「日本」を採用した主な原因だと思われる。この原因のほかに,もう一つの説がある。同じ『新唐書』「日本国伝」に「日本は乃ち小国,倭の并(あわ)せる所と為り,故に其の号を冒す」という記述がある。つまり倭の他に「日本」という小国があり,倭がその日本という国号を持つ国を征服してその国号を奪った,とのことである。これを見ると,日本列島の内部紛争という原因によって「日本」に改名されたのである。その時期は,前述した『新唐書』「日本国伝」に「咸亨元年」(670)以後と記されている。それは唐代張守節(ちょうしゅせつ)『史記正義(しきせいぎ)』の「倭国,武皇后改めて日本国と曰う」という記事と合致する。また,それは周辺国である倭の改名が大国の唐王朝に認められたにすぎないのである。ところが,倭国を日本国に改名したのは,遅くとも隋煬帝時代には行われたと推定できる。それゆえ,有名な隋煬帝への日本国書に「日出づる処の天子」という文句が出てきたのである。
 しかし,日本という国号の成立過程をさらに考えてみれば,たぶん次のような経緯があると推察できるであろう。つまり日本という国号を最初につけたのは,日本人ではないと思われるのである。なぜかというと,円形の地球ではどこから見ても太陽は東の方から昇ってくるだろう。日本人自身の置かれた場所から見ても同然である。ところが,中国人が中国大陸側から見れば,日本列島側が東方の太陽の昇る方向である。それゆえ,中国人は渡来した日本人にどこからきたのかと聞いたところ,日本人は東方を指して答えた。その答えを聞いて,中国人はその方が日(ひ)の本(もと)ですねといった可能性が充分にあるであろう。そうして日本人もわれわれの住むところは日の本だと悟ったのである。「日本」の由来はこれではなかろうか。一見極論のようではあるが,これは筆者の単なる憶測ではない。「日出づる処」という言い方はそもそも中国側の観察だったと思われる。逆に西側から中国の方を見れば,それも「日出づる処」であろう。『北史』巻97「西域伝」に「日出づる処を常に漢中の天子と為すを願う」という文があり,西のペルシャの人が中国を指して言ったことばである。もう少し傍証を挙げれば,古代メソポタミア文明の地域であるオリエント(Orient)という地名は,ラテン語の「太陽の昇る処」の意味である。これは西側のイタリア半島からの観察による地名である。太陽の方位で名づけた地名は,まだ挙げられる。ヨーロッパ(Europe)という呼称はもともとギリシア語の闇(erebus)によるものであるといわれる。これは古代ギリシア人が西方,つまり落日の世界としたのが由来である。このような認識は唐代詩人の詩によっても確認される。例えば,劉長卿(りゅうちょうけい)の「同崔載華贈日本聘使」には「遙指来従初日外,始知更有扶桑東」(『全唐詩』巻150)とある。斉己(さいき)の「送僧帰日本」にも「日向東来日西遊,一?閑尋遍九州」(『全唐詩』巻847)とある。一方,日本側の『万葉集(まんようしゅう)』巻19では,古代日本の歌人が西側の中国を「日の入る国」(天平五年入唐使に贈れる歌)と描写している。これについて日本史学者所功氏は「『日本』国号の成立経緯」において,「日本列島が「日出づる処」「日()の本(もと)」にあるという認識は,日本列島の内から生じ難い発想であって,むしろ日本より西にある朝鮮や中国からみて東の方を言い表したことが基になっているのではなかろうか」と述べている*1。著者の考えが期せずして一致したのは,全くの偶然ではないであろう。
 前掲の『新唐書』に記載されているように,「倭」を「日本」に改名したのは,その「名を悪」んだからと解されてきたのである。ところが,日本に改名しても,倭という旧名は日本人に嫌悪されるものではなかったようである。唐宋以降近代にいたるまで,日本の数多くの書籍や物産名には相変わらず「倭」とつけていたのがその明証であろう。例えば,織物としての倭文(しどり),文字としての倭字,書名としての『倭玉篇(わぎょくへん)』・『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』などである。『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』では「倭唐」,「倭皇」,「倭才」などの言葉も屡々見えている。この点については,東アジア古代史学者である李成市氏も「八世紀以降,「日本」を対外的に国号として用いてからも,対外意識の強い書物には「日本」に冠せられるようになるものの,奈良・平安の貴族には「日本」という表記に対する関心はたいそう低かったのである。聖武天皇もその宣命に「日本国」を記さず「大倭国」と記している」と指摘している*2
 しかし,近代以来,日本であれ中国であれ,「倭」は「矮」とされ,「こびと」と解釈されている。どこの辞書にも載せていないこの解釈は,どこから生じたものであろうか。これについては,おそらく文字学の知識が乏しいための誤解か,あるいは故意に本義を無視して曲解したものであるとしか思われない。もしも「倭」に背の低いという意味があれば,それに「親魏倭王」という称号を封じた「魏」は,背が低い鬼ということになってしまうのではないだろうか。有名な文学者でもある曹操とその子曹丕・曹植がそのような無知なことをするであろうか。現代日本語では,「倭」の発音は「ワ」であり,「矮」の発音は「ワイ」である。この二文字の発音は比較的近いようだが,唐宋時代の音韻を反映している『広韻』では,「倭」は烏禾切,平声,戈韻に属するが,「矮」は烏蟹切,上声,蟹韻に属する。二文字は,韻でも声調でもそれぞれ全くくいちがうのである。現代中国語でも,「倭」は「wヒ」で読むが「矮」は「チi」と読む。発音の隔たりは甚だ大きいのである。
 以上の考証から見れば,最初の「倭」という文字が,古代日本列島の国や人を指した時には,決して悪い意味がないものであった。しかしながら,前に引いた『新しい歴史教科書』のほか、さらに『週刊新潮』の文章には,「倭国とか倭人とかも,小さいという意味の蔑称だから,今なら国際問題になりかねない,最も私たちだって,半世紀前には,憎しみを込めて「鬼畜米英」といったものだが」と述べている*3。このような「倭」に対する長期間にわたる曲解と非常識は,ほかでもなく,中国人と日本人が相互に憎しみあうように挑発するものである。本当にそれはいわゆる「国際問題」を引き起こす導火線となるであろう。もしそうならば,なんと悲しいことであろう。これこそ今日に「倭」の本義について究明しなければならないゆえんなのである。
 
          二、「倭」の意味変化について        
 
一方,一般に中国への蔑称とされる「支那(しな)」という言い方があるが,実はこれについても,そもそも蔑視的な意味があったわけではない。一般的にいえば「秦」→「CHINA」→「支那」という転訳にすぎない,ということは少なくとも学界では常識となりつつある。しかしなぜ日本人が口にする「支那」は,中国人にいつも大きな反感を抱かせるのであろうか。それは十九世紀末期以来の日本による中国侵略という背景がある。そのために,もともとは普通で,何も悪意のない言葉にその悪いイメージがついたのであると思われる。「倭」という言葉について言えば,今日のように悪いイメージが付きまとっているのも,「支那」に悪い意味が付加されたこととまったく同じであると思われる。
 元時代の後期から,明時代にかけては,中国東南沿海部によく倭寇(わこう)が侵入し騒乱を起こしていた。このことが,中国人に「倭」についての悪い意味を持たせてしまった根本的原因であると思われる。倭寇は武装した海賊集団として,最初の段階はその多くは貿易のもめごとによって次第に形成されたものである。それは南宋時代にすでに糸口を開いた。『宋史』巻491『日本伝』に「倭船の火児滕太明(とうたいめい),鄭作(ていさく)を殴りて死(ころ)す」という記事がある。その殺人犯である滕太明は後に日本に強制送還された。たぶんこのような事件が屡々起こったためであろうか,宋は一時的に「倭船の界に入る」ことを禁止する詔を出したことがある*1。元代後期になると,『元史』には「(至正)十八年自り以来,倭人瀕海なる郡県に連なって寇する」という記事がすでにある*2
 ところが,正史の中で「倭」と「寇」を一緒に使うのは,『明史(みんし)』から始まったのである。『明史』の中での「倭寇」という言葉を考察してみれば,そもそも倭寇の「寇」は名詞ではなく,「寇(あだ)する」という意味の動詞であった。『明史』では,「倭寇」という言葉は60カ所くらい使われている。その約半数は「倭,山東の海に瀕する郡県に寇する」(巻2「洪武紀」),「倭,雷州に寇する」(巻3「洪武紀」),「倭,福州に寇する」(巻6「成祖紀」),「倭,浙江に寇する」(巻18「世宗紀」),「倭,上海に寇する」(巻126「湯和伝」),「倭,嘉興に寇する」(巻205「胡宗憲伝」),というような記載である。「寇する」とは侵略すると同じ意味である。現代風に解釈すれば,倭寇とは「日本が侵略する」のような意味であろう。その言葉では「日本」自体は全く悪い意味がないように,「倭」にも悪い意味がもともとなかったわけであるが,「寇する」つまり「侵略する」という言葉が表したのは,やはり名分も言葉も正当な行為ではないであろう。そうしてやがてその行為を行う人にも,自然に悪いイメージが染まってしまい,「倭寇」もついに「日本侵略者」と同義語になったのである。それゆえ,『明史』では,約半数の「倭寇」という言葉が名詞としてでくるのである。それは後に動詞から転じたものである。それから「倭寇」によって「倭」のイメージが次第に中国人のところで悪い方に定着するようになった。こうして中国人の持った悪いイメージは,また逆に日本人の「倭」に対する理解にも影響を与えたのではないかと考えられる。
 
          おわりに
 
 総じて言えば,「倭」ひいては「倭奴」にはそもそも悪い意味がなかったと断言できる。そして元明時代の倭寇侵略によってイメージが悪化しはじめたのである。近代以来の中国人には,歴史上の既存の名詞を使って,戦争によってもたらされた民族的恨みを表す習慣がある。それは至極自然のことであると思われる。しかしこのように「倭」の意味変遷が言語学以外の要因によってもたらされたことについて,われわれはもっと深く考える必要があると思う。戦争は戦勝国に対しても,敗戦国に対しても,いずれも不幸なことである。経済と文化を破壊させるだけでなく,民族間の恨みをも生じさせる。今日のようなグローバル時代において,自国中心的史観を超えて,より冷静かつ客観的に歴史事実に全面的に見据えて,「倭」と「支那」との語彙のようなその不愉快な意味変遷を二度と発生しないよう,これを過去の負の遺産として受け継ぎ,反省しつつ,史上における多くの日中両国の文化的互恵を後の世代に伝えることこそが,歴史家が担うべき責任ではないであろうか。
                                  「つくる会」の歴史教科書を斬る――在日中国人学者の視点から』(日本僑報社、2001年8月
   

*1『京都産業大学日本文化研究所紀要』第6号(平成13年3月)。
*2小森陽一等編『歴史教科書 何が問題か――徹底検証Q&A』(岩波書店,2001年)。
*32001年6月21日発行。
*4『宋史』巻44「理宗紀」。
*5『元史』巻46「順帝紀」。
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