徽宗と蔡京
――権力の絡み合い――
                                                        王 瑞来
はじめに
 
 話題は朱熹(しゅき)が述べた一つの逸話から始めよう。『朱子語類(しゅしごるい)』巻一二七に
  徽宗(きそう)、星変見(あらわ)れるに因り、即ち衛士に令して党碑を仆(たお)さしめ、云わく、明日を待  つこと莫かれ、蔡京(さいけい)を引得して又た来り 炒(さわ)がしめん、と。明日、蔡以て言を為す。又  た詔を下して云う、今、碑を仆すと雖も、党籍却って旧に仍る、と。
とある。党碑とは、王安石(おうあんせき)変法に反対する官僚の名前を記録して永遠に起用せずということを示す石碑である。宮殿前の石碑は徽宗本人が自ら書写したもの、全国各地の役場前の石碑は宰相蔡京が書写したものである。この逸話自体とその背景は何を物語っているのか。逸話を見ると、次の二点を指摘できると思う。一つは、元祐(げんゆう)党籍碑の設置は徽宗の本心ではなかったこと。世論の強い反発によって、徽宗は屡々党籍碑を廃棄しようとしたが、宰相蔡京の妨害で実現できなかった。やむを得ず、星変という不吉の前兆を借りて、夜にあわただしく衛兵に党籍碑を倒させた。このことから、皇帝である徽宗が宰相蔡京を恐れていたことが分かる。
 もう一つは、党籍を廃止しないことも徽宗の本心ではなかったこと。本来、党籍碑を倒すことは党籍の廃止を意味する。しかし徽宗の予想どおり、党籍碑を倒した翌日に、蔡京が徽宗に絡んできた。徽宗は本心に逆らって「今、碑を仆すと雖も、党籍却って旧に仍る」という詔を下すほかなかった。これを見ると、いわゆる君主独裁制の成立した宋代において、名義上での至上の皇帝としても、宰相の意志と反すると、場合によっては止むを得ず詔を下し、自分のやり方を変えねばならなかったことが分かる。
 このような事実は従来の君主独裁制への一般認識にそぐわないであろう。徽宗は北宋の亡国皇帝の一人であるが、朱子が述べたことは特例ではなく、宋代の中央政治における権力形態の実質を表している典型例であるといえる。それはいったいどのような権力形態であろうか。ここでは朱子の述べた事例に沿って、徽宗朝の政治に対する考察を通してそれを説明していきたい。 
 
     一、建中靖国から崇寧へ――崩れた政治のバランス――
 
 1100年1月、跡取りがない宋の哲宗(てつそう)が病死した。皇太后向(しょう)氏の強力な主張によって、反対意見を排除して、哲宗の五人の弟の中で、二番目の腹違いの弟、19歳の趙佶(ちょうきつ)が皇帝位についた。これが中国史上で有名な皇帝にして、芸術家かつ風流人の宋徽宗である。幾多の紆余曲折を経てようやく皇帝となった徽宗は、有為の名君主になろうとしたが、その父神宗(しんそう)の時代に行った王安石変法が残した党争、つまり新法党と旧法党との派閥闘争の後遺症に悩まされることになる。
 王安石変法は、煕豊(きほう)変法ともいい、王安石の主宰により、神宗の治世煕寧(きねい)(1068〜1077)・元豊(げんぽう)(1078〜1085)を貫いた経済・行政・軍事・教育などの分野で行われた全面的な改革のことである。改革の理念と実施をめぐって、当時すでに賛成派の新法党と反対派の旧法党に分けられ、次第に激しい党争となり、本来の正常な政争は個人的恩讐の応酬に転じた。神宗を継いで即位した哲宗の前期元祐間(1086〜1094)に旧法党が執政して、新法がほとんど廃止され、新法党が左遷されたが、哲宗後期になると、「紹聖(しょうせい)」「元符(げんぷ)」という年号が示すように、新法が復活され、旧法党が追放された。
 即位後の徽宗は、上述の政局に直面して、ジレンマに陥った。一方は新法を行った自分の父親神宗であり、一方は旧法党に味方する自分の即位を支持した義母向太后である。現実の損得への配慮であろうか、徽宗は即位の直後、新法党を退け、旧法党官僚に名誉回復をして全面的に起用した。このふるまいが向太后や朝野にある旧法党勢力に口をそろえてほめたたえられ、「小元祐」といわれた。そればかりでなく、王安石変法に対して偏見を抱いている後世の学者にも称揚されている。清人王夫之(おうふうし)『宋論(そうろん)』は「徽宗の初政、燦然として観るべし」とほめている。実はこうした旧法党起用は徽宗の施策ではなく、成人ではない徽宗の代わりに摂政する向太后のふるまいであった。いうまでもなく、そのすべては徽宗の名義で行ったのである。これが全て徽宗政治とされるのはありえない。一歩進んでいえば、旧法党の再執政はやはり旧法党に味方する向太后が朝野の旧法党勢力に利用された結果である。
 しかし徽宗即位の半年後、向太后が死んだ。徽宗は頭上からの心配が無くなり、政治路線の調整が始まった。即位の当初、徽宗はかつて詔を下して直言を求めた。その機会に乗じて、新法党と旧法党が次々に政治意見を出した。新法党はすべての弊政を「元祐更化(こうか)」になすりつけ、司馬光(しばこう)などの旧法党が哲宗をだまして、太皇高太后の支持を得、神宗と王安石の正確な新法を廃止し、改革派を追放し、国家を新たな苦境に追い込んだ、という。一方、旧法党は、当時王安石は神宗を惑わして、祖宗の法を乱し、混乱をもたらしたが、司馬光などの旧法党は旧制を恢復して危難を免れた、という。激しい党争の中で、向太后の病死に伴い、一時的に勢力が強くなった旧法党は、次第に権勢を失いつつあった。若い徽宗は、その父神宗のように有為の大事業をしようとし、朝廷の政治を正常に戻し、党争を静めさせるために、折衷案を打ち出した。つまり同時に新旧党人を起用することである。それゆえ、徽宗の即位した翌年、大臣の提案によって、建中靖国(けんちゅうせいこく)と改元した。これも当時の新旧党の勢力がやはり伯仲した状態にある現状を客観的に表している。
 ところが、当時の党争はすでに調停できない状態になり、新党・旧党はともに徽宗の折衷案に反対した。まもなく徽宗の中間路線は行き詰まりが事実として証明された。旧党の官僚が徽宗に「人材、固より当に党与を分かつ可らず、然るに古自り未だ君子小人雑然として並進して以て治を致す者有らず」と上奏した。一方、新党の起居郎ケ洵武(とうじゅんぶ)は、ようやく皇帝となった徽宗の父神宗を受け継いで有為の大事業を成し遂げる心理をずばりと当てた。徽宗に接見されるとき、現任宰相韓忠彦(かんちゅうえん)は韓g(かんき)の子なので、新法に反対するのは父の遺志を継ぐが、陛下は神宗の子として、どうしてかえって神宗の遺志を発揚することができませんか、と徽宗に質問した。こうして徽宗に刺激を与えた後、一部の『愛莫助之図(あいばくじょしず)』を呈上した。その図は『史記』の年表に倣い、宰相以下の各部署の官僚を七項目に設置して左右二欄に分ける。左欄には神宗の変法に賛成する新党を並べて、わずか20余人であるが、右欄には元祐更化に賛成する旧党を並べて、在朝の主要な官僚をほぼ包括した。図の最後、神宗の遺志を継ぐならば、蔡京を宰相に任命しなくてはいけないと特に強調した(『宋史』巻三二五ケ洵武伝)。したがって、中間路線に失敗感を味わった徽宗はその政治のてんびんが新法に傾いていった。
 ケ洵武の発言は、徽宗の治世の最後まで大きな影響を与えた蔡京の登場を予示している。
 いったいケ洵武が取り上げた蔡京はどのような人物であろうか。煕寧三年(1070)進士に及第した福建出身の蔡京は、変法派に追随していたが、実は日和見主義者である。元祐の初め、旧法党司馬光は宰相となり、「免役法(めんえきほう)」を廃止して、「差役法(さえきほう)」を恢復した。その施策は地方で大きな抵抗に遭った。当時知開封府(かいほうふ)を担当する蔡京は、司馬光の要求どおり、五日間で開封府のすべての所轄県でその興廃を完了し、大いに司馬光の歓心を買った。しかし司馬光が罷免されて、新法党章惇(しょうじゅん)の執政になると、蔡京は転じて章惇についた。「紹述(しょうじゅつ)」(神宗の遺志を継ぐ)の名義で蔡京がいろいろな悪事をしたため、非難されてしばしば地方に左遷された。徽宗の即位したとき、蔡京は依然として絶えず弾劾を受けて、結局は職名が奪われて提挙洞霄宮(どうしょうきゅう)という閑職を与えられて杭州(こうしゅう)に追放された。
 蔡京は朝廷内で多くの非難を被ったものの、徽宗は蔡京にそれほど悪い印象を抱いておらず、かえってある程度の好感を持っている。芸術家の資質を持っている徽宗は即位する前に、書画の創作と蒐集に耽っている。蔡京の書道は当時かなり有名であった。蔡絛(さいとう)『鉄囲山叢談(てついざんそうだん)』巻五に「紹聖の間、天下に能書と号するものは魯公(蔡京)の右を出づる者無し」と述べる。また同書に王子時代の徽宗はかつて二万銭(二十貫)で蔡京自筆の文字のある扇を買ったことがある。杭州に住む蔡京は、珍しい書画・宝物を蒐集するために来た宦官童貫(どうかん)に取り入って、童貫を経由して苦心して作った屏風や扇子を徽宗に送った。また蔡京の友人もよく宮殿に出入りする道士徐知常(じょちじょう)を利用して宮内でつねに蔡京をほめた。したがって宮殿内の女官と宦官たちは口をそろえて蔡京を称賛するようになった。
 まもなく蔡京が新たに起用されて、知定州(今の河北定州市)になった。それから蔡京は迅速に昇進していった。以下の時間表を見よう。知定州の翌年、つまり崇寧(すうねい)元年(1102)、宋朝の北京である大名府(今の河北大名県の東部)の知府になり、一ヶ月後、皇帝の首席秘書官である翰林学士承旨になった。また二ヶ月後の五月、尚書左丞に昇進した。翰林学士承旨は蔡京が元符年間にかつて担当した官職の復職であり、尚書左丞の昇進は蔡京の政界の最高層である、執政集団に入ったことを表している。それに止まらず、二ヶ月後の七月、曾布の代わりに、二番目の宰相右僕射になり、半年後の崇寧二年正月、さらに昇進して首相である左僕射になり、官僚の最頂上に登った。わずか一年間という昇進の速さは宋代にもまれである。これは単に徽宗の歓心を買ったという理由だけで説明できないであろう。朝廷の政策の決定や人事の任免などの政治的な出来事は、往々にして物理学の合力のように作用した結果である。蔡京の昇進も同然である。たとえば、蔡京が地方から朝廷にもどって翰林学士承旨になったのは、朝廷内二人の宰相の争いと関わっていた。『宋史』蔡京伝に「韓忠彦、曾布と交悪して、謀るは京を引きて自助せんとし、復び用いて学士承旨と為す」とある。
 蔡京の昇進と同時に、旧法党官僚が一掃され、朝廷は混じり気のない新法党の天下になった。蔡京は翰林学士承旨になると、すぐに旧法党への攻撃を始めた。政府の最高権力を手に入れた後、いっそう大がかりに旧法党への狂気じみた報復を執り行った。二年間にわたって、元祐の法を焼き払い、全国の役所に『元祐姦党碑』を建て、刊行された『唐鑑(とうかん)』(『資治通鑑(しじつがん)』の一部)及び三蘇(蘇洵(そじゅん)・蘇軾(そしょく)・蘇轍(そてつ)父子)・秦観(しんかん)・黄庭堅(こうていけん)等の文集を廃棄したなど、色々な悪事をした。旧法党だけでなく、かつて自分の恨みを買う人に対して旧法党ではなくても、見逃さないように一緒に追放した。それはすべて徽宗の名義で行ったが、実は蔡京の意志を表していることは言わずとも自明なことであろう。
 蔡京はいろいろな行動を遂行するために、組織的な保障を行った。かれは王安石変法の三司条例司に倣い、政府機関を捨てて、別に自ら提挙を担当する都省講議司を設置して、下に宗室・国用・塩沢・賦調・尹牧などの部門を分け、一部門を腹心の部下三人に主管させた。「凡そ設施する所、皆な是れ由り出づ」と『宋史』蔡京伝に述べる。異分子を排斥迫害すると同時に、中央から地方までに一味徒党を配置して権力を握っていた。以上はこのように理解できるのではなかろうか。蔡京の「紹述」の名義での諸行動のプロセスは権力を奪うプロセスである。政治はバランスをとるテクニックである。政治のバランスが崩れると、その政治に危機をもたらすのは必然の勢いであろう。徽宗の蔡京一辺倒は皇帝権を流失させたばかりでなく、政治情勢の悪化を伴い、経済・軍事・文化・教育などの様々な領域に取り返しのつかない損害をもたらした。やまない党争の中で国力が弱められた。したがって女真(じょしん)人の金国による突然の侵攻に遭遇すると、北宋王朝は早くも滅亡した。北宋の滅亡はその歴史的偶然性があるものの、徽宗朝と始終していた宰相蔡京も罪を逃れないであろう。
 
     二、豊・亨・豫・大の太平天子 ――皇帝権の流失――
 
 従来、徽宗は無徳の亡国君主とされるが、その即位した初期、一瞬の輝きのように有為の青年皇帝のイメージが確かに表されたのである。有為の皇帝と暗愚な君主、その両者は著しいコントラストを示している。なぜ一人としての徽宗にこの不思議な変化が起こったのか。
 中国史上においてほとんどの歴代の王朝は、政権の永続化をはかって、子孫のために厳格な保傅制度を立てた。こうした太子の保傅(太保・少保、太傅・少傅など)と皇帝の侍読侍講学士たちは、皇帝の即位前後に、毎日彼の頭に伝統的君道を入れて、良き皇帝となるべく訓戒を与え、支配集団の根本的利益に合致する規範を取り入れさせる。中国史上、相対的に正常な政治情勢の下で、ほとんど殷の紂王のような暴君が出て来なかった一因は、歴代の整った保傅制度と講読制度の設置によると思われる。このような儒学士大夫の政治的設計から、皇帝が自律性を強化し、自発的に自分の行動をつつしみ、君道の規範を守らせることになったのである。これは肯定的な立場で皇帝権を制約するテクニックである。宋代の保傅制度と講読制度は、それ以前の歴代より完備したものであるだけでなく、さらにこのような教育を皇族子弟の全体にまで広げていた。たぶん皇子の皇帝になる不確定性がその制度拡大の一因であろう。
 徽宗はこのような教育下で育っていたのである。それゆえ、かれの即位前後、自己制限の皇帝の美徳がしばしば現れていた。皇子時代から徽宗は珍しい鳥の蒐集・飼育が好きであったが、諫官江公望(こうこうぼう)の忠告を受け入れ、飼育した鳥を放してしまった(『[木+呈]史(ていし)』巻十)。ある日、遅くまで諫官陳禾(ちんか)が上奏していると、徽宗は朕は腹がへった、改めてまた話そうか、と言いながら離れていった。陳禾は遮るとき、あわてて徽宗の服の袖を引き裂いた。陳禾は、陛下は服の砕けるのが惜しくなければ、臣は頭の砕けるのも惜しくないと言った。徽宗はついに怒ることなく終わるまで、陳禾の上奏を傾聴した(『揮麈後録(きしゅこうろく)』巻一)。蔡京・童貫の誘惑によって徽宗はだんだんと奢侈になったが、依然として世論の非難や大臣の批判を招くことを心配する。徽宗は昇平楼を補修するとき、宰相張商英(ちょうしょうえい)が通りすがったら、急いで職人を隠すように工事監督を戒めた。それは張商英の忠告があったためである(『宋史』巻三五一張商英伝)。これらは帝王教育の効果ではないか。このような教育を受けた徽宗は良き大臣の補佐を得れば、傑出した皇帝にならなくても、守成の君主になり、無徳の亡国の君主になるはずはないであろう。不幸なのは徽宗が確かに後者となったことである。
 正規の帝王教育を受けた徽宗は、風流な才子のぜいたくな望みがあるものの、即位初期には、かなり自己制約をした。ある年の誕生日の宴会に、徽宗は玉製の杯や皿を使いたいと思いつつ、また世論の批判を心配していたが、蔡京は昔使者として契丹の宴会に出たとき、そこで使っていたのはすべて玉製のものだと言って、さらに「多言畏れるに足らず」と徽宗の心配を取り除いた。蔡京は儒学経典『易経(えききょう)』と『周礼(しゅうらい)』から「豊・亨・豫・大」(豊饒安楽の意味)と「唯王不会」を引いて、太平の盛世を思いきり享楽すべき、また君主の費用に制限はないと曲がった解釈をした。蔡京はまたときにおいて、いま国庫の蓄積は五千万以上あるため、どう使ってもかまわないと徽宗に話していた。それから盛んに土木工事をやって、宮殿を増築して築山・回廊・人工湖を作り、専ら「花石綱(かせきこう)」で江南から珍奇な庭石や花草を都に運んで、また道教を信奉して方士を重用するようになった。ひどい時には、宮中に大勢の女官を持っている徽宗が、つねに妓楼に忍びの遊びをしにいき、翌日の朝見がしばしば取り消しされるほどであった。徽宗が名妓李師師(りしし)と密会する逸事は当時に広く伝わっている。徽宗は道教・書画・酒色に耽って、政事に関心を持たなくなっており、二十五年の治世の多数時期において、実質上の皇帝権は、完全に十七年間宰相のポストに位置した蔡京の手に落ちた。朝廷は蔡京を始めとする後に「六賊」と呼ばれた王黼(おうふ)・朱[面+力](しゅめん)・李彦(りえん)・童貫・梁師成(りょうしせい)、および楊[晋+戈](ようせん)・高[人偏+求](こうきゅう)・李邦彦(りほうえん)などの悪党の世界になった。
 その奸臣たちは有為の君主に成る可能性がある徽宗を非道で愚かな君主にさせたのみならず、新法の名義で免役法・[木+寉]茶法(かくちゃほう)・鈔塩法(しょうえんほう)などを実施して、「括公田(かつこうてん)」の方式を民間の土地を横取りして私腹を肥やしていた。蔡京・童貫・朱[面+力]の家産は国庫より多かったと言われる。蔡京の誕生日になると、全国各地の役所は貢ぎ物を捧げて、「生辰綱(せいしんこう)」と呼ばれた。小説『水滸伝(すいこでん)』での「智取生辰綱」(計略で蔡京の誕生日貢ぎ物を奪取)の描写は全くフィクションによるものではない。蔡京などの過酷な施策と非道な行為は、本来王安石変法を経て好転した北宋の政治と経済を急速に悪化させて、社会は不安定に陥った。当時の民謡「筒(童貫を指す)を打破し、菜(蔡京を指す)」を溌し了れば、便ち是れ人間は好世界」(『能改斎漫録(のうかいさいまんろく)』巻一二)が流行して、蔡京などへの不満を吐いていた。宣和(せんな)年間(1119〜1125)山東と浙江では前後して宋江(そうこう)と方臘(ほうろう)の農民反乱が起こった。
 内政を悪化させた蔡京たちは、大きな事をして手柄を立てようとした。それは東北部に勃興した女真人金国と盟約を結んで宿敵の遼(りょう)を滅ぼし、五代のとき喪失した今の北京を含む華北を回復しようと目指したものだが、共同作戦を通して、宋の弱みを見破った金は遼を滅ぼした後、まもなく南下して北宋を滅亡させた。ある意味で北宋は蔡京たちに葬り去られたといえる。
 今日北宋の亡国歴史を回顧するとき、その皇帝権の流失を深く考えるべきであろう。
 
   三、徽宗朝から見える皇帝権の実態――皇帝権の変質――
 
 中国史上における君主制は、今日いくつかの国に存続している日本の天皇制のような立憲君主制と異なるが、実権を持つアメリカのような大統領制とも違う。時代が経つにつれて、中国皇帝が握る権力の実質は次第に実在の行政権から象徴的な許可権へ変化していった。これは歴史の全体的趨勢であるにもかかわらず、繰り返された王朝の交替はしばしばその変化を中断させ、皇帝権の象徴化から実権回復という「先祖返り」の現象がよく見られた。なぜ皇帝権にこのような象徴化への変化があったのか。政府の行政機能の完備と運営分担の綿密化は皇帝を兼任する行政長官の役から退出させて、転じて専ら国家元首としたゆえんである。しかし皇帝権のこのような変化は君主制設置の初志と矛盾していた。史上においてしばしば起こった皇帝と宰相との争いは、多くの場合、権力の限界不明によって生じたものである。
 史書の記事を見ると、ほとんどの朝廷政令は皇帝名義の詔勅で発布したため、したがって後世に君主独裁という錯覚を起こさせた。実は当時の行政メカニズムを明らかにすれば、この錯覚がなくなるはずである。唐代になると、中書省が起草し、門下省が審議し、尚書省が実施する、という完備された三省制が形成された。その上で宋代の政治制度が作られた。『宋史』蔡京伝に「国制、凡そ詔令、皆な中書門下議し、而る後、学士に命じて之れを為らしむ」と記されている。朱熹も「君は制命を以て職と為すと雖も、然れども必ず之れを大臣に謀り、之れを給舎に参ず。之れをして熟識し、以て公議の所在を求む。然る後に王廷に揚げ、明らかに命令を出し之れを公行す」(『晦菴集』巻十四)と類似したことを述べる。この点について宋代の皇帝仁宗も「凡そ事は必ず大臣と僉議し、方めて詔勅と為す」(『庶斎老学叢談(しょさいろうがくそうだん)』巻二)と自ら話している。これをみると、政令は制定から頒布までの全過程で、皇帝が主要な役割を果たすことはない。その多くは、最後の頒布の段階に入った時点で、「押印」のような役割を果たしたにすぎない。皇帝は具体的政務を処理せず、実際上の権力を発揮することもない。かれの地位と象徴性が大きな影響力を持っていて、かれの名義で天下に号令することになる。伝統中国の皇帝のもつこの特性は、執政の政治集団に充分に利用されてきた。
 国家元首の皇帝と行政長官の宰相は多くの場合において相互信頼の親密な関係を持っていた。したがって宰相は最大限に皇帝の権力を利用できる。史上において、皇帝を無為とし政務に干渉させない方法は二種類がある。正常の政治運営のために、官僚士大夫が往々にして帝王教育を通してこの目的を達成する一方、権臣が専権のために、皇帝の政治への関心を弱めて、蔡京が徽宗に玩物喪志をさせたようにも目的を達成する。しかしこうした結果は朝廷を全面的に崩壊させた。蔡京は、権力を徹底的に自分でコントロールするために、既存の政府部門を捨てて、前述した「凡そ設施する所、皆な是れ由り出づ」という講議司を設置したたけでなく、前に引いた『宋史』蔡京伝に、かれはつねに御筆手詔の形を使い、自ら徽宗の名義で詔勅を起草して、後に徽宗に写し取らせたとある。ある言葉は全く皇帝の言葉に似つかわしくない場合によく出た。このような現象は、実際の政治活動の中で皇帝が往々ある政治集団の工具となったことを表している。
 実際、詔勅が皇帝本人の意志に出ないことにつき、当時の人はすでに熟知していた。蔡京が再び宰相となり、廃止された政令がみな復活し、かれの反対派は続々と罪を着せられた。そこで葉夢得は徽宗に質問し、「陛下、前日建立する所は陛下に出づるや、大臣に出づるや。其の罷むるに及んで、又た従りて之れを復するは亦た陛下に出づるや、大臣に出づるや。…今徒だ、一大臣の進めて以て作す可しと為さば、即ち法度従りて立つ。一大臣の退けて以て作す可らずと為さば、則ち法度従りて廃せらるるを見るのみ。乃ち陛下、未だ中に了然たらずして、己より出でざる者無からんや」(『宋宰輔編年録(そうさいほへんねんろく)』巻十一)と言った。皇帝として、本心に逆らって大臣の意見に従う場合もかなりある。本文の冒頭に述べる徽宗が夜に慌てて元祐党籍碑を倒すという例はこれである。徽宗の堂々たる名を以て蔡京の悪政の実を行うのは、皇帝権の変質を物語っているであろう。 
 
        おわりに
 
 儒学の帝王教育は有能な行政長官になる教育ではなく、有徳な国家元首になる教育である。皇帝の権力暴走を防ぐために、神権と道徳というようなソフトな制約を作られた一方、法律規定と諫官設置というようなハードな制約を作られた。昔の士大夫にとって、最も理想的な政治は、皇帝が政治に無欲無為になって、政務に干渉せず、政府事務が宰相をはじめとする執政集団により運営されるという状態である。ところが、皇帝が政治に無欲無為になっても、宰相をはじめとする政府の全体腐敗は最も怖れることである。それは王朝の滅亡を導くことができる。徽宗時代の政治はこれを証明した。
 徽宗朝の政治は終始して党争を絡んでいる。政治闘争の中で、皇帝権は派閥によく利用されている。徽宗の皇帝生涯はと始終していた宰相蔡京は、ある意味上で北宋の滅亡を導いただけでなく、南宋の宰相専権の悪例を創った。南宋の秦桧・史弥遠・賈似道は蔡京に匹敵する権相であった。かれらの悪政は南宋にも苦境ひいては滅亡をもたらした。ところが、宰相専権は必ずしも悪い結果になったのではない。例えば北宋の寇準・王旦・王安石の専権は悪政ではなかったという定評がある。ここでは宰相の人柄を探究するつもりはないが、普通の政治状態より、専権の宰相行為を通してさらに中国史上における皇帝権力行使の実態を明らかに示すことができると考えたのが、本文を草したゆえんである。中国史上における皇帝権力形態については、拙著『宋代の皇帝権力と士大夫政治』(汲古書院、2001年)をご参照いただきたい。
                                           
                                    (『アジア遊学』第64号 特集「徽宗とその時代」、2004年6月5日発行 )
 
 
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